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≪第38回コスモス文学新人賞(ノンフィクション部門)受賞≫
『新星日響合唱団のヒットラー・郡司 博』 中島 和裕
連載第5回(2005/4/21 更新) →最初から読む
5. 『合宿第一日目』の巻
11月10日、よりにもよって快晴だ。朝からさっさと合宿の準備をしている兄を横目に、いつまでもグズグズと準備をせずにいた私は、出発直前になって、やれあれがない、これがないと大騒ぎをした。(案の定、名札やらシーツやらを忘れた)
副会長を所沢で拾い、三人で奥多摩福音の家に向かった。
学生時代山登りをしていた私にとって、山は友人であり、萎縮した自己を解放してくれる、大きな父の胸のような存在であるはずだったが、今回ばかりは、かってが違った。
奥多摩の山が近づくにつれ、ヒットラーグンジが近づいてくるように感じる。ヒットラーグンジは、恐怖、怒り、悲しみ、落胆、失望、萎縮といった、全てのネガティブメンタリズムの象徴だ。
空は青くて、その透き通るような青さに、森の緑は輝きを増し、吸い込むと体中がポキポキと音をたてて伸びていくように感じるほど、風は優しく柔らかだったが、私は恐怖でそれどころではなかった。だが、
「山が近づくう、グンジが近づくう」
と一人うなり声を上げるわたしも大ばか者だったと思うが、それを聞いてゲタゲタ笑っている二人の薄情さも、見逃せないと思う。
合宿所には、午後一時ころ着いた。練習は二時からだったから、一時間くらい時間があった。合宿所は、教会のチャペルだ。副会長とともにチャペルに入ると、団長さんが、オーディション用の電子ピアノの音を調整していた。合宿中は、有志の人がオーディションをうけることになっていたのだ。
今回は受ける気のない私は、副会長とともに、どこに座ろうかと悩んでいたら、どこにでもいる、仕切りたがるおじさんが、
「音的にはね、真ん中の方がいいんだよ。でもね、初心者は一番前がいいよね。出来ないとき、後ろにいるのとでは、先生がうける印象が違うんだよ」
と、教えてくれた。こういう風に先輩風を吹かせてくれる人に限って、あんまり上達しないものなのだが、せっかくのご意見なので、それを尊重して一番前に座った。
二時になると、ヒットラーグンジが練習場に入ってきた。私の祈りは天に届き、グンジは大風邪をひいていた。
グンジは、いつものように、あのだらしない感じにシャツを着ていた。全身の細胞がビリッと引き締まる。
〈さあきたぞ、空襲警報発令だ〉
しかし予想に反して、ヒットラーの表情は先週よりも、多少柔らかかった。
まずグンジは、呼吸法の指導から始めた。みんなの前で横になって寝て、赤ん坊の泣き方を実演して見せた。
赤ん坊の泣き方は、腹式呼吸の原点なのだそうだ。無理のない自然な発生なので、声がよく響くのだそうだ。
「だから、赤ん坊の声というのは響くんですよ。うちなんか、いまだにかみさんにいわれるんですがね、子供がうるさかったんで、けっとばしたんですよ」
〈自分の赤ん坊をけっとばして、平気な顔をしている冷血人間なんだ。やっぱり、こいつは悪い奴だ。泣くしかできない赤ん坊を、けっとばしたりする奴なら、暗譜してないと、往復ビンタくらいは、覚悟しとかにゃならんかもしれん〉
グンジのおなかは、声を出すときへっこんで、息を吸い込むとポコンと飛び出る。タヌキのおなかみたいだ。みんなはヒットラーのおなかを見て、ゲラゲラ笑っていたが、私はこの目の前にいるケモノを見ていると、笑うどころじゃなかった。
グンジが見本を見せた後、今度は全員が床に横になって、シャ腹筋を使うために、横になって足を上げて息をはく練習だ。
山をやっていた私は、20キロ前後の荷物を背負って、険しい山道をサバイバルしていたため、上半身に比べて異常に足が太い。この太い足を上げるということは、普通の人が足を上げるよりも、かなりの気力、体力を必要とする。
そもそも足というものは、一度太くなると、容易なことでは細くはならない。それに付け加えて、トレーニングをしていないため、上半身の筋肉はかなり衰えている。足を上げながら息をはくということは、重労働なのである。
〈ザコペックじゃあるまいし、なんであたしが、こんなに苦しい思いをして、足持ち上げなきゃなんないのよ。あたしは歌を習いにきたんであってね、筋肉トレーニングにきたんじゃないのよ〉
足を少し上げて息をはき、おろしてまた上げる。下腹部の筋肉が、ブルブルふるえてくる。
「自分のペースでいいですよ」
とヒットラーは言うが、その言葉が終わって1分とたたないうちに、
「ずっと休んでちゃだめだ」
と、怒鳴る。
〈じゃ、あんたがこの足、持ち上げてみなさいよ〉
喉のところまできている叫びを噛み殺した。怒りをふくんだ目で、ヒットラーの後ろ姿をにらんでやった。別に後ろからにらまれたって、ヒットラーは痛くもかゆくもないだろうに。
「はい、やめ」
ヒットラーの声で、この拷問は終った。時間的には、ほんの2、30分くらいだったと思うが、私の人生の中で、かなり長いと感じた短時間だった。
ゼイゼイと息をしながら立ち上がると、横でやっていたおばさんが、
「あなた、気分悪くない? 大丈夫? やけに苦しそうだったわよ」
と声をかけてくれた。
「大丈夫です」
と答えた私に、
「余計なところに、力が入っているんじゃないの?」
と助言してくれた。ただ足が太いだけですなんて、とても言えなかった。
ヒットラーは、呼吸法の練習の後、口を開ける訓練を始めた。ピアノの音にあわせて口をパクパク金魚のように開けるのである。
下顎を下げると、息が回りやすくなるのだそうだ。
「もっと口を開けて。顎なんて捨ててしまえ!」
ヒットラーグンジは、叫んだ。捨てようったって、そう簡単に、顎を捨てるわけにはいかない。
「あなた、口が開いてない!」
ヒットラーは、一人一人の口の開き方を念入りにチェックしている。はたから見たら、いい年した大人達が、そろいもそろって一様に、口をパクパクさせている姿は、かなり不気味なものがあったろうと思う。
こんな無駄なことにたくさん時間をさいて、練習ができるのだろうかと心配になったころ、ヒットラーはやっと合唱部分の練習に入った。
だが、練習するところは、短い小節だった。どうやらポイントとなるところらしい。
ヒットラーは、リズムと発音に関して、特に細かかった。黒板を使いながら、
「ここに休符がないとしてかぞえてみると、どうなりますか?」
と、聞いた後に、みんなに歌わせたり、
「ここのモは、明るいモですか? それとも暗いモですか?」
などと、質問を浴びせ掛けて、発音をいちいちチェックしたりした。
ヒットラーグンジは、とにかくアルトに厳しかった。過去二回の練習と同じように、やたらアルトを攻撃してきた。ソプラノの方がずっと音が下がっていても、とにかくアルト、アルト、とアルトが集中爆撃を受けた。
アルトの方が年配の人が多かった。おばさん連中は、別にふざけているわけでも、ヒットラーをなめているわけでもないのだが、イと言いながら口をウの形にしろだとかいうグンジの指示をまったく守ってくれなかった。
ヒットラーの指導傾向として、声はガラガラだが、最初の二回くらいは、まだ幾分穏やかそうにしている。穏やかと言っても、普通の人が聞いたら、ちっとも穏やかじゃないが。ところが、三回ほど同じことを注意させると、本領が発揮されてくる。ヒットラーの声が、ピンと張り詰めたものになり、五回目以降は確実に遠吠えを聞かされる。
「あんた、まじめにやる気があるのか!何回第九やってんだ。ふざけてんのか!」
ヒットラーの怒声が飛ぶ。このときのヒットラーの声は、せんぶりをなめたヤマタノオロチのように、苛立ちと怒りで満ちあふれている。顔はトリケラトプスのようだ。そして何度もいうが、このミサイルは、八割がアルト目掛けて落とされるのだ。
このヒットラーのおたけびをきくたびに、全身の血は凍りつき、ついでに心臓が冷たくなって、たたけばキンキンと音がなりそうになるのである。
別に私を責めているんじゃない。私を叱っているのではない。それはよくわかっているのだが、怒られるおばさんたちと私の実力の差は、アリンコの爪ほどもないのである。下手をすれば、おばさん達の方がうまいのである。
自分よりもうまいおばさんが、罵倒されいじめられて、かみつかんばかりの怒りに満ちた目で睨み付けられるのだ。
〈あてられたらどうしよう〉
そう思うと、ヒットラーの解説なんかに耳を傾けている余裕なんてない。時計をチラチラ見つつ、あてられませんように、あてられませんようにと、さながら宿題を忘れた小学生のようにビクビクとして、ひたすら早く時間が過ぎることを祈るだけだった。
午後6時。夕食の時間がきた。2時から6時まで、恐怖心でガチガチになっていた私は、あの筋力トレーニングもきいて、かなり疲労していた。おなかがペコペコだったので、御飯が食べられると思うと嬉しかった。
食堂に入ったら、もうみんな席についている。副会長と私と兄は、三人で座れる席を探したら、ばかで白痴で何も考えない兄が、ヒットラーの目の前の席三つをみつけて、
「ここにしよう」
と、いきなり行ってしまった。おまけに自分はヒットラーから見て、ななめ右の席についた。その横に座った私は、ヒットラーの真ん前であった。
胃の中から、胃液が逆流してきて、口の中が苦くなったが、ここで平常心を失って取り乱してはいけないと気持ちを立て直し、食事を始めた。
無鉄砲で頭の中が空っぽの兄は、よせばいいのに、ヒットラーと話しはじめた。しかも、こっちが頼んでもいないのに、人のことをヒットラーに紹介してしまった。
私は誰の目にもとまらない道端にひっそりと咲くタンポポみたいに、ヒットラーグンジには、その存在をほとんど知られず、『あんな子いたっけ』程度で終らせることを理想としていたのだが、無能な兄が余計なことを言ってくれたため、面が割れてヒットラーに認識されてしまった。
しかたがないのでおあいそ笑いをしたが、ヒットラーグンジはムッとしている。せっかくのいこいの時間に、なんでこんなに気を使わなければならないのかと思うと、情けなかった。
目の前にいるヒグマに気を使いながら食べた夕飯は、おなかがすいていたにもかかわらず、たいそう味気なかった。
夕飯を終えて少しでも早く、このヒグマの前から立ち去りたいと思いつつ下を向いていると、いきなりヒットラーの声が私を直撃した。
「ほうれんそうを、食べなさい」
ガラガラヘビの声に、驚いて私は目を上げた。
何よりも私が恐れているのは、このサソリと目が合う瞬間だった。
「ほうれんそうには、カロチンが入っているのだから」
ヒットラーグンジは、実に冷たい目で私を見ながら言い放った。
読者は、『なんだよ、ただ残さず食べろって言われただけだろ』と思われるかもしれない。だが、そう思われる方は、柵のない小さな部屋で、ヒグマとさしで食事をしている自分自身をイメージしていただきたい。もちろんヒグマとて日本にいるあんな小さなものでなくて、ロッキー山脈あたりにいる、体長3メートル、体重1トンくらいある銀色のフカフカの毛並みのでかい奴である。そのヒグマがうなり声をたてたと考えてみて、それでも平気だという人は、失礼だが人間の感性はお持ち合わせでない。体は人間だが、脳みそはクマの、人グマである。
私は小心者だが、普通の人間だったから、当然声が出なかった。
『誰のせいでもなく、あんたのせいで食欲がないのよ』なんてことも当然言えない。
〈ここでさからって、ほうれんそうを食べなかったら、後でどういじめにあうかわからない。何しろ相手は、まともな社会性を持った人間ではないのだ。意地悪な変人なのだ。さからったら、後で何をされるかわからない〉
交感神経がビンビンに緊張し、毛細血管が戦闘体制に入った私は、黙ってほうれんそうを口の中に押し込んだ。
夕食後は、またポイントを押さえた練習が続けられた。
「息をまわせ!」
「出そうとする音の一枚上の音を歌え!」
ヒットラーは、何度もこの言葉を言い続けた。ヒットラーが重点項目としたところは、私がAランクに位置させたところの全てだった。
〈やっぱり、あたしができないところは、みんなできないんだ〉
と妙に安心したりもした。Aランクのところの、歌い方がわかったとき、わかっただけで歌えないくせに、なんだかワクワクしてしまう。単純な奴は幸せである。
9時、練習が終る直前、ヒットラーは結構良い機嫌で言い放った。
「明日、男性の方は全員、女性の方もオーディションをしていきます」
ヒットラーの言葉に、頭から水をかけられたムササビのように、ポカンとしてしまった。
〈合宿中のオーディションは、有志が受けるんでしょ。冗談じゃないわよ。話が違うじゃないのよ。どうしてこいつ、こんな意地悪ばっかりするの? きっと初心者が逃げ帰るのを待っているんだわ。こいつは、根っからのひねくれ者だから。あんたって、どうしてこんなにやなことばかりやるの? 嫌われ者になるわよ〉
もちろん、声に出しては言えない小心者であったから、ヒットラーグンジがソプラノの方を見ている間に恨みつらみを一心に込めた目で睨んでやった。
その晩、同室だった団長の奥さんの札野幸恵さんと、少しおしゃべりをした。幸恵さんが話してくれたが、ヒットラーグンジは、やはりアルトに厳しいのだそうだ。ママさんコーラスのようになるのが、いやなのだそうである。
でも、ママさんコーラスが、どういうものであるのかも知らない私には、幸恵さんの言っている意味がわかるわけもない。ただ、アルトを目のかたきにするヒットラーをうらめしく思うだけだった。
ヒットラーは、去年諦めてしまっていて、ほとんど怒らなかったのだそうだ。今年は、まだみどころがあるから怒るのよと慰めてくれた。
〈そりゃ、妻子の飯がかかっているもの、真剣になるわよね〉
この二回の練習があまり厳しすぎて、新星日響の事務局に、一体あの男はなんだ、まるでケモノのようだと、クレームの電話が入ったのだそうだ。
〈やっぱり、あいつに反感を持ったのは、私だけじゃないんだ〉
私は、妙に納得した。
幸恵さんは、旦那の札野さんと共に、新星日響合唱団の、第九部門の事務局を担当していた。えんの下の力持ち的存在だった。
また幸恵さんと話している間に、ヒットラーの住んでいるところが、Hというところだということを知った。Hは、私の家からさほど遠くないところにある。高校時代の友達もたくさんいる。
〈へぇ、結構近くに住んでいるんだ〉
そんなことを考えて寝たら、とんでもない夢を見た。
私の家の近くにサソリグンジが住んでいて、土方着を着て、第九を歌いながらブロック塀を作っているのだ。しかもヒグマグンジは、コソコソと逃げようとする私を呼び止めて、
「歌ってみろ!」
と大声で言う。
ビクビクしながら歌うと、
「違う!」
と怒鳴り、ブロックを投げつけてきたのだ。
私は全力で走って逃げながら、
〈なんでこんなことになるの?〉
と考えていた。
最悪のめざめだったことは、言うまでもない。
合宿は(最近めっきり少なくなったが)、特に初心者が多かったり新曲で練習時間が足りない時に、週末を利用して泊りがけでする集中練習の事である。第1日目の午後・夜間、第2日目の午前・午後と計4回、丸2日間同じ曲に集中するのはかなり大変だが、1〜2ヶ月間の練習にひってきする効果があると思っている。 |
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