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 ・〜・〜 目 次 〜・〜・

 はじめに
1.「1989年新星日響の第九」の巻
2.「合唱ってこんなもの?」の巻
3.「ヒグマでサソリでガラガラヘビで」の巻
4.「恐怖心と怒声」の巻
5.「合宿第1日目」の巻
6.「風の中のグンジ」の巻
7.「野菊」の巻
8.「黒須先生」の巻
9.「オーディション」の巻
10.「美しい人」の巻
11.「本番に向かって」の巻
12.「1990年新星日響の第九
      IN東京芸術劇場」の卷
13.「エンジェル ヒロ君」の卷



≪第38回コスモス文学新人賞(ノンフィクション部門)受賞≫
  『新星日響合唱団のヒットラー・郡司 博』  中島 和裕


連載第2回(2005/3/31 更新)   →最初から読む
 2.『合唱ってこんなもの?』の巻

 9月1日、生まれてはじめての合唱の練習に参加するために、九段下の神田パンセに行った。
 受け付けで入会金千円を払い、楽譜を買った。「歓喜の歌」と書かれた楽譜の表紙。
 なんだか持っただけで、ブルジョワになったような気分だ。受け付け用紙には、パートを書く欄があった。歌なんて歌ったことのなかった私は、自分がソプラノなのかアルトなのか、わからなかった。でも副会長がアルトだったので、あっさり自分のパートはアルトと決めた。
 練習費の一万円は、後払いにした。お金はあったけれど、ついていけるかどうかわからなかったし、続けられる自信もなかった。まあ、やめるにしたって千円だったらおしくもない。本番は、12月16日2回と19日の1回の、計3回だ。
 練習は、毎週土曜日の午後の6時半から8時半までの2時間だった。
 最初に、小学校でもやった発声練習だ。こいつは、まあなんとかクリアーできた。
 発声練習の後、
 「じゃ、D」
と、S氏が言ったとたん、ピアノにあわせて、みんながドイツ語で歌いはじめた。楽譜の見方なんぞ知らない私は、副会長に教えてもらって、やっとDというところを開いた。
楽譜には、AからTまでアルファベットがふってあって、そこを目安に練習するのだそうだ。はじめて開く楽譜、まったく読めないドイツ語、さっぱりとれない音。
〈失敗した〉
瞬間的に、そう思った。
 こいつはもしかしたら、とんでもない世界に飛び込んだかもしれない。
 楽譜が開けない、音がとれないだけで、かなり動揺していたが、それに訳のわからん意味不明のドイツ語が加わり、頭の中がパニック状態になった。
〈なに? いったい、なにやっているの?〉不安げにまわりを見ると、みんな平気な顔をしている。
〈すごい、みんな、こんなむずかしいことが、スラスラできるんだ!〉感心している場合じゃなかった。みんながページをめくると、どこを歌っているかわからなくなっても、とりあえずページをめくる。ただキョロキョロまわりを見回しているだけで2時間が終わった。 
〈合唱ってこんなものなのかなぁ。わけがわからないなぁ。でも、なんとかなるものなんだろうなぁ〉練習の初日の帰りに、感じた気持ちだった。
 家に帰って、これはどうしたものだろうかと考えた。とりあえず、どこを歌うのかがわからなくては、手のつけようがない。そこで楽譜のアルトの歌うところに、ラインマーカーで線を引いた。(ソロの歌うところまでラインをひいてしまい、練習中、なおさら歌っているところがわからなくなるという大失敗に気づいたのは、もちろんかなり後だった)その次にしたことは、とりあえずインデックスを楽譜につけ、S氏が言った箇所をすばやく開けるようにした。
 だが、いったい、なにをどこから手をつけたらいいのかが、まったくわからない状態での練習がやはり続いた。
 2回目の練習日(9月8日)に、私の魂胆を見抜いた副会長は、バックレ防止のため、練習費一万円を潔く払うことを強要し、シブシブ財布を開いた私は、正式に新星日響合唱団入団にいたった。
 練習場には、毎回会報が置かれていた。会報といっても、団長が、練習にかんすることやらCDの紹介やらインフォメーションやらを直筆で書いた、ようは小学校時代の学級新聞みたいなものだった。この会報に、第九パート別レッスンカラオケCDがあるという耳より情報があったので、さっそく会社の帰り、このCDをさがしに行った。
 誰でも容易に想像がつくと思うが、こんなCDを買う奴なんて、そうそういない。当然、お取り寄せになった。若い娘が第九のカラオケCDを注文するときの恥ずかしさは、やはり、かなりのものがあった。
 1990年の夏は、発狂するんじゃないかと思うくらい暑かった。暑さに弱い私は体調を崩し、絶不調だった。それが理由ではないのだが、カラオケCDは手に入れたものの、かったるかったので、別に聞いて練習しようとは思わなかった。 
 だが、インデックスをつけ、カラオケCDを買っても、やはりまだ不安なものがあったので、副会長にドイツ語のカタカナ読みの書かれた楽譜をコピーしてもらって、楽譜にカタカナで読みがなをつけた。これで、かなり完璧な下準備がととのった。
 練習は、その後も続いたが、途中でなんだかつまらなくなって、やめようかなぁと思った。でもS氏は、とても優しかったし、声もきれいだし、怒ったり個人攻撃をしたり、一人で歌わせたりすることがない紳士だったので、つまらなかったけれど、練習はのんびりしていてさほど嫌じゃかったので続けていた。
 一緒に行っていた兄と散々私を誘った副会長は、あんまりS氏の指導を好きじゃなかったようで、練習はさぼりがちだったが、私はS氏は優しくて良い人だと思っていた。ただ、いくら練習に出ても、自分一人ではちっとも歌えないことが、気がかりだった。
〈やっぱり音痴だからかなぁ。スジがないのかしら。まあ合唱ってこんなものなのかな〉そんなことを、ちょっと感じることがあった。
 9月に入ってからの連休2日間に、近藤という女の先生の練習があった。近藤先生は、年のころは私より3才から4才上くらいの、わりと小柄な、やたらハキハキと話す人だった。彼女はS氏と違って、はい歌いましょうと言ってすぐ歌いだしたりせず、まずドイツ語の発音をはじめた。発音記号を見て、彼女の後についてドイツ語を発音させた。ドイツ語の読みを、カタカナでふってはいけないのだそうだ。
 特に、口のかたちにうるさくて、もっと口をとがらせろだとか、オヨヨヨと言ってみろだとか、S氏とは、かなり違う教え方をした。
〈この人、いったいなんでこんなことさせるのかな。歌の練習にきたのに、歌いもせず口をとがらせてドイツ語の発音練習して、こんなんで、歌えるようになるのかなぁ〉鏡の前で口の開け方を練習させたり、極めつけは、高い音を出す時の顔をしろと言われた時には、この人、なに考えてるのかなと、あきれずにはいられなかった。
〈顔作って声が出るんだったら、苦労しないのに〉でもなんだか一生懸命に教えようとしている姿が、なんとなく好きで、とにかく言われたとおりにやってみた。
 また途中で、この人が日本人の音楽に対する妙なブルジョワ嗜好や、ゆがんだ価値観を批判している顔は、少女みたいに見えた。どうやら彼女は、ドイツに留学していたらしい。ドイツの音楽ホールのことや、もっといろいろな人に音楽を解放してほしいという願いや、やたら物だけ豊かな日本で今、第九を歌うのは意味があると思いますなどと、練習の合間に話す時の目が、小犬とか小猫などの邪気のない動物の子供の目のようだった
 壁に立って腹式呼吸の練習をさせたり、歩きながら発声練習をさせたり、発音をいちいちチェックしたり、だいぶS氏とは毛色の違う練習だ。音とりも、4小節くらいづつ短くきりながら、できるようになるまで何回も練習させた。どうやら、いい加減にやっているとわかるらしい。めだたないようにと一番後ろにいたら、一番前にきなさいと言われてしまった。
 練習の後半に入って、部分練習したところを通しで歌ったとき、自分でも驚いた。歌えるのだ。楽譜を見て、自分が今どこを歌っているのかわかるのだ。さすがにドイツ語は、まだタドタドしかったけれど、確実に音がとれるようになっている。
 だが、もちろんはっきり言って、そんなことは、できてもちっとも偉くない。小学生だってできる。(現にソプラノには、小学校五年生の子が平気な顔をして歌っていたのだ)ところが単純な私は、誰でもできることが、自分にできたというごくあたりまえのことに、たいそう感動してしまった。
〈歌える!あたし、音痴じゃなかったんだ〉家に帰って一人で歌ってみたけれど、やっぱり歌える。
 へぇ、あの人すごいやと感心しつつ、近藤先生に習ってから、今まで歌えなかったのは、私のせいばかりじゃないなと思うようになった。
 次の週から、またS氏の練習がはじまった。
 「やとわれ指揮者だな。サラリーマン的で、ハートがないんだよ」
 「なんか、あの人いや。郡司先生の方がいい」
 兄と副会長は、やっぱりS氏が好きじゃなかったらしくて、練習も遅れたり、さぼったりが続いた。
 3人のうちでは、出席率は私が一番だった。
 「一番できないあんたが、一番熱心だね」
と親は感心していたが、それは当たり前のお話なのである。3人とも合唱経験が長く、楽譜は読める、音はとれる、ドイツ語の発音もできるのだ。楽譜読めない、音とれない、発音できないの三重苦を背負ったヘレンケラーは、練習に出なければ歌えるようにならない。だけど、私がここまで熱心だったのには、実はもう一つのワケがあったのだ。
 7月のまだ暑いさかり、会社に気になる人が現れた。ゆきお君だ。ゆきお君は、本社の海外部の人だったのだけれど、研修で私の勤務地にきていた。組合の青年婦人部のキャンプで、同じ車に乗ったことから知り合い、意気投合して話してしまった人だった。別にどこがめだつとかいう人じゃなく、華やかさもまったくなかったのに、なんだか気になる人だったのだ。
 私は、安全パイ作りの天才と言われていた。親しくなる男性全てを、次々に安全パイにしてしまうので、異性のお友達はたくさんいるけれど、異口同音で彼等は、
 「お前には女を感じない」
 と言うのだ。
 悪友佐智子に、ゆきお君への気持ちを話したとき、佐智子は真面目顔で言った。
 「あんたは安全パイ作りの天才だけど、ただ本気で人を愛することから逃げているだけなんじゃないの?本気で人を愛せない人は、人から本気で愛されることはないのよ。もし、その人のことが気になるんだったら、どうしてその気持ちに素直にならないの?自分の気持ちにすら誠実になれない人が、人の気持ちに誠実に対していけると思う?たとえその気持ちがその人にとどかなくても、人を愛せたということは、きっとあんたの心に自身を残すはずよ。逃げてばかりじゃだめよ。このままじゃ、本当に幸福にはなれないよ」
 頭を、カナヅチでたたかれたような感じだった。
 私は数年前、強烈な失恋をした。結婚したかった人がいたが、縁がなかった。その時は泣いて悲しんだ。時が流れ、立ち直って、また笑顔を作れるようになっても、いつのまにか、もうあんな悲しい思いをするくらいなら、人など本気で愛さないほうが楽だという逃げの思いが、心に巣を作っていたのだ。
 「このままじゃ、本当に幸福にはなれないよ」
 佐智子の言葉は、私の心の中をグルグルまわった。
 ゆきお君が研修を終えて、本社にもどる時、おせんべつにとお酒を買った。買ったまではいいが、どうやって渡したら良いのかわからず、佐智子に、うんとおしりをたたかれながら、やっとの思いで、タドタドしく渡した。そこつ者の私は、自分の住所と電話番号を書いたメモを渡し忘れ、佐智子に言われてはじめて気づき、あわてて後から渡しに行った。当然今回の第九のコンサートにもゆきお君を誘い、本番は聴きにきてくれるという約束ができていたのだ。
 ゆきお君にいいところを見せたいという不純な動機が、この合唱練習参加の熱心さをささえる原動力になっていたなんてことは、もちろん誰も知らなかった。
 近藤先生に教わってわかったが、S氏は声はきれいで優しいけれど、人に歌の歌い方を教えるのは下手だった。歌えないところはたくさんあったのだけれど、口をパクパクさせていればそれで事足りてしまった。
〈合唱ってこんなものなのかなぁ。でも、これで本番大丈夫なのかしら〉いちまつの不安が広がった。
〈まあ歌えなけりゃ、そこだけ口を、パクパクさせていればいいや〉そうやって、自分の心をなぐさめたけれど、やはりちょっと不安だった。
 10月になっても、相変わらずドイツ語は読めず、音は、近藤先生に習ったところ以外はとれないという状態が続いた。
 「はい、歌いましょう」
 というS氏の練習。団長の札野さんに、楽譜にかじりつかないで、指揮者を見るようにと注意を受けたが、そんなもの見る余裕なんて、どうやって音をとったらいいのかもわからないのに、あるわけない。でも、合唱ってこの程度のことをやっていればいいのなら、まあなんとかなるな、と思っていた。
 10月15日のS氏の最後の練習日、S氏は、素人さんはどうぞ僕から技術を盗んでくださいと言った。 
 練習が終わった後、団長が今回はじめて歌う人を集めた。団長は、みんなを見回しながら言った。
「次回から、郡司の練習が始まります。彼は、良い人なんですけど、練習中は厳しくて、楽譜を見るなと言っているのに見たりしていると、楽譜を取り上げたりします。それから出ていけと怒鳴ったりすることもありますが、出ていかないでください。もしそう言われたら、私のところにきてください」
 帰り道、副会長に、郡司という人はそんな恐ろしい人なのかと聴くと、普通にやっていれば怖くないよ、だけど顔はひどいよ、との返答。
 叱られるのは、おばさん連中だよ、とのことなので、少し安心した。(しかし、これは大きな認識の誤りであったことが後でわかった)
 「ペンを忘れないほうがいいよ」
 別れぎわに、副会長が言った一言の意味の重さがわかったのは、わずか一週間後のことだった。

 次回はいよいよ「ヒグマでサソリでガラガラヘビ」の登場である。今のうちに重ねて言っておくが、現在ではなく20年前の話である。

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