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 ・〜・〜 目 次 〜・〜・

 はじめに
1.「1989年新星日響の第九」の巻
2.「合唱ってこんなもの?」の巻
3.「ヒグマでサソリでガラガラヘビで」の巻
4.「恐怖心と怒声」の巻
5.「合宿第1日目」の巻
6.「風の中のグンジ」の巻
7.「野菊」の巻
8.「黒須先生」の巻
9.「オーディション」の巻
10.「美しい人」の巻
11.「本番に向かって」の巻
12.「1990年新星日響の第九
      IN東京芸術劇場」の卷
13.「エンジェル ヒロ君」の卷



≪第38回コスモス文学新人賞(ノンフィクション部門)受賞≫
  『新星日響合唱団のヒットラー・郡司 博』  中島 和裕


連載第1回(2005/3/24 更新)
 1.『1989年 新星日響の第九』の巻

 私の筆名は、和裕だけれど、私はけっして男性ではない。
それどころか、お年頃の娘さんである。じゃなんだってそんな筆名にしたのかと聴かれれば、これは、ちゃんとしたワケがあるのだ。
 東京都交響楽団の、もと指揮者の小泉和裕さん。彼は、私の憧れの男性であった。お嫁さんになってあげてもいいと思っていた。もっとも、一度もお話した事もないので、性格なんて、まるっきりわからない。けれど、彼の音楽は、私の生活には、なくてはならないものだった。
 大学四年間の楽しい学生生活の後、社会人生活に入って多くの人が起こす不適応反応に、平均的な人間である私も、当然みごとにはまってしまった。
 毎日毎日、半ベソ顔で帰宅し、思い出すのは、学生時代のことばかりという、この暗い精神状態、俗に言う五月病って奴に、バッチリつかまってしまったのだ。
 それがちょっと平均的じゃなかったのは、私の場合、この五月病がえらく長く続き、夏になっても、秋風がふいても、まったく改善のきざしが見られなかったというところだった。
 秋もだんだんと深まり、冬に向けて時間がゆっくりと過ぎていくころになっても、胃が毎日痛んで、食べ物を食べても急にもどしてしまったり、暑くもないのに、びっしょり汗をかいてしまったり、世間一般に言われる自律神経失調症の軽いものに、かかってしまっていたのだ。
 冬が、秋からバトンを受け取る頃、気分転換にと、知り合いにもらったタダ券で聴いた東京都交響楽団の定期演奏会で、小泉さんの音楽に出逢った。 彼の音楽は、それまで、音楽なんてただ退屈なだけと思っていた私の価値観を、まるで砂の城の上に降り注ぐ雨みたいに、一瞬にして洗い流してしまった。
 音楽とは、実に不思議なものである。ボロボロにひびわれてしまった心の隙間にそっと入って、心を大きな力にゆだねさせるのである。心の中に広がった暖かいものは、いつの間にか自分に変わって悩みや苦しみを背負ってくれる。
 全ての大きなものにゆだねて、そこから帰ってくると、問題は全然解決してないのに、満たされた幸福な気分になっているのだ。
 音楽は、長い歴史の中で、人が永遠であり続けるために背負わなければならなかった孤独を優しく伝えてくれるのだ。長い時間がこれまでも続いたように、これからも続くだろう。私が苦しもうが喜ぼうが、時は永遠に続くんだ。
 結果を焦るのをやめよう。若さは美しさは、必ずなくなるけれど、美しい花が散っても、すばらしい実をつける豊かな木のようになろう。今はまだ小さいことにクヨクヨするけれど、40代、50代になった時、10年前、20年前の自分の姿を忘れずに、そしてそれを優しくつつめるような豊かな人間になるための、トレーニングが今のつらさなんだ。
<なあに、大丈夫。なんとかなるさ>
あきらめでもなく、りきみでもない自然な素直な心が広がっていく。

 東京都交響楽団では、W氏が有名だった。でも、心の中にポンと威勢よく飛び込んできて不安、あせり、怒り、その他のネガティブメンタリズムをシュッシュッとはきとると、一礼して微笑み消えていく、魔法の小人みたいな小泉さんの音楽は、すっかり私をとりこにした。硬派でありながらミーハーの私は、小泉和裕ファンクラブを作り(会員は2名)副会長の友人と一緒に、小泉さんの演奏会にでかけていったものだった。
 別にどんなにめかしこんだって、小泉さんは、観客の一人でしかない自分のことなんて見やしないのに、念入りに化粧をしたり、前日には髪をトリートメントしたり、そりゃあもう、なんていうか、彼の演奏会に行くときっていえば、恋人に逢いにでもいくかのようだった。(今から思えば大バカ者である)
 暮れからお正月にかけての時期には、小泉さんの演奏会ばかり、5回も6回も聴きにいく。当然同じ曲ばかりだ。 「ダーリンの演奏会に行くの!」  などど訳のわからんことを言って、いそいそとでかける私を、兄は異常な奴と呼んで、白い目でみていたが、異常だろうが何だろうが、好きなんだからしかたない。
 その後、彼の演奏会のおかげと、もともとの素質から、私の神経はドンドン太くなり、社会人3年目を迎えた1989年には、立派なお局様に成長していた。
 1989年の暮れ、私は小泉さんの演奏会を全部聴きにいくという過密スケジュールをこなすため、多忙な生活を送っていたのだが、そこに副会長の友人から、新星日響の第九を聴きにいかないかという誘いの電話が入ったのである。
 1989年の新星日響の第九。
 正直に言って、あの演奏会はよくなかった。よくなかったと言うより、もっとひどい言い方をすれば、お金をもらって人にきかせるものではないとすら思った。
<金かえせ!> 拍手をしながら心の中で思った。女はいつでも現実的である。
 「まあ、たまには、はずれることもあるよね」
 そんなことを話しながら、暮れの町を、教会のバザーで買ったオーバーのえりを立てながら帰ったものだった。
 それ以降、新星日響の演奏会には行かなかった。知人が、たくさん券をくれても、あの演奏会のイメージが、心にこびりついてしまったからである。こう考えると、オーケストラは、一回一回が真剣勝負の世界だから、大変だと思う。
 1990年8月、副会長の友人から電話があった。
 「新星日響の合唱団で、第九やるんだけど、一緒にやんない?」
 歌を歌うことは、嫌いじゃなかった。仕事の途中でも、単純作業でワープロやらパソコンやらを使っているときは、自然と鼻歌を歌っていた。歌が出ないと、
 「体の具合が悪いの?」
 などと心配されることもあった。
 でも、私は音痴だった。私の歌を聴いて、その曲目を一発で当てることができたのは、ごく少数の人だけだった。
 「あたし、やっぱり音痴かな?」
 学生時代、恐る恐る聴く私に、副会長はすまなそうな顔をして、
 「う、うん」
 と答えたものだった。
 「あたし、音痴だからね」
 自信なさそうに言う私に、副会長は、
 「大丈夫だよ、大丈夫」
 を連発した。
 「あたし、音痴だしぃ」
 「大丈夫、大丈夫」
 「あたし、楽譜よめないしぃ」
 「大丈夫、大丈夫」
 「あたし、声悪いしぃ」
 「大丈夫、大丈夫」
 「8月から練習始まってるんでしょ。9月からでついていけるかなぁ」
 「大丈夫、大丈夫」
 大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫・・・・・。
 友人の声が、呪文みたいにきこえて、催眠術にでもかかったような気分だ。
 その時私の脳裏に、1989年のあの魔の第九の演奏会の日のことがよみがえった。
<私は音痴だけど、あのくらいのレベルの合唱団だったら、ついていけるかもしれないな>
単純でおだてに弱い私は、この先にどれくらの苦労が待っているかも知りもせず、実にあっさりと合唱団入りを決意した。
 その後、前々から合唱をやりたいと言っていた兄に、義理で第九やる?と聴いたら、
 「おう、やりたい!」
 と、こちらの気持ちとは裏腹に、のりきってしまった返事が返ってきた。兄は、高校、大学とずっと音楽をやっていたので、歌は割合にじょうずだったのだ。
 うっとうしいので、本当は来てほしくなかったのだが、あんまり乗り気だったので、シブシブ一緒にやることを許可したのだが、まだ日曜日で、土曜日にならなきゃ練習はないのに、もう楽譜を私の部屋に持ってきて、うれしそうに解説を始められたことは、実にはた迷惑だった。

 次回はいよいよ九段下の神田パンセに練習に行く。懐かしい人も多いだろう。お楽しみに・・・

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