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エッセイ・手記のコーナーには、コンサートのパンフレットに寄せて書いた投稿文や、日頃思っていることを連ねて行こうと思っています。(随時更新)。プロフィール・主なコンサートは下のリンクからどうぞ。
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≪エッセイ・手記のコーナー2005≫
2005/9/2 ある映画の記者会見で
2005/8/12 子どもと大人のためのコラボレーション
2005/7/28 新聞記事〜『ミサで熱唱 宗教超え共鳴』
2005/6/13 「無理は禁物」はおたがいさま?
2005/5/24 記憶にない・・・ 〜昔の合唱団員の話1〜
2005/5/5 東京都交響楽団の契約楽員制度導入に一言・・・
2005/5/5 専属ピアニストとの出会い〜噂の真相〜
2005/4/24 「戦争レクイエム」の演奏会に想うこと
2005/4/24 長年連れ添った?ムーちゃんのこと
2005/4/14 ガリー・ベルティーニ氏、関屋晋氏の訃報
2005/3/18 新星合唱団創立30周年へのメッセージ
2005/3/16 ベルリオーズ「レクイエム」本番を終えて
2005/3/31 サタさんと東京大空襲(手記) ※読者からの反響メールをアップ
2005/2/19 軌跡〜新星合唱団と安達団長のこと〜
2005/2/19 軌跡〜俺たちの交響楽・ライエン・コーア〜
2002/6/7 團 伊玖磨 『岬の墓』演奏に寄せ
 
 

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≪ある映画の記者会見で〜新聞記事の抜粋から≫
 
 「映画の若者たちは愛する人を、家族を、国を守るために死を覚悟して出撃しましたが、あなたは愛する人のために死ねますか?」戦争末期、沖縄への海上特攻で三千数百人の命とともに、南海に沈んだ戦艦大和を描く戦争映画の大作「男たちの大和(YAMATO)」(東映、監督佐藤純弥)の記者会見(17日)でのことである。
 若手俳優はさすがに即答出来ず、それでも「愛する人のために死ねます」と答えた。
 そのあと佐藤監督の番がまわってきた。彼はいった。「違う。家族や国を守りたかったら、戦争をしないことです。いまそのために何をすべきか、ぜひ考えてほしい」。

 これから10年私達はこの二つの道のどちらかを選択しなければならないのだろう。人々の心に音楽を宿す仕事をしている私たち音楽家にとって、その心が宿る肉体を単なる肉の塊に分散してしまう殺し合いなどあってはならないのである。
 私は迷うことなく佐藤監督の道を歩まざるを得ない。(郡司)

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≪子どもと大人のためのコラボレーション≫
 
 12月25日の東京荒川少年少女合唱隊の定期演奏会での初演を目標に、

  『怪獣のバラード』作曲:東海林修、作詞:岡田冨美子
  『ともしびを高くかかげて』作曲:富田勲、作詞:岩谷時子
  『大地讃頌』作曲:佐藤真、作詞:大木惇夫
  カッチーニの『アヴェ・マリア』、『ジムノペティ』

などを児童合唱団と男声合唱団による合同演奏として、オーケストラ版でアレンジする準備が始まりました。この7月に2回ほどこの中の数曲を合同演奏しましたが、平均年齢で60歳の差があるこのコラボレーションは、楽しく愉快になりそうです。
 僕がこのコラボレーションを思いついたのは、オケ付き『こどもたちのための交響歌』が好評で、演奏するたびに子どもたちの歌声が美しくなり、表現力が増していったからです。オーケストラと、子ども、大人が一緒に歌える作品は非常に少なく、親しまれた曲をアレンジし、それぞれの個性を大事にしながらも、調和の出来る音楽を生み出す必要があります。
 これは世代間の断絶が嘆かれている今、音楽作りを通してオーケストラと長い合唱経験を持つ男声合唱と、音楽経験の浅いけれど可能性を秘めた子どもたちが共演することで、コミュニケーション豊かな未来図を表現したかったからです。そして来年6月3日の東京芸術劇場でも再演しようと思っています。大人の合唱団の魅力と、子どもの合唱団の魅力が一体化することで、新しい合唱の可能性を追求できるのではないかと思っています。マーラー『千人の交響曲』、ブリテン『戦争レクイエム』でも、作曲者はそれを見事に成功させました。どうぞ楽しみにしていてください。

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≪ミサで熱唱 宗教超え共鳴≫
 
 この文章は2000年7月、日本経済新聞に掲載されたものです。

  2000年4月末、米国の美しい学園都市マディソンを訪ねたときのことだ。私たち東京オラトリオソサイアティは、当地のべテル教会でミサの合唱に加わった。教会の聖歌隊と一緒だったのだが、彼らは練習中から無愛想でプイと横を向いてしまう。おかしいなと思っていたら、「もともと異教徒の日本人がミサで歌うのに反対だったんだ」と牧師の方が後で教えてくれた。

 ## 日本の童謡も合間に ##
 ところが、モーツアルトのレクイエムやヘンデルのメサイアを演奏するミサが終わってパーティー会場に出かけると、中年女性の聖歌隊員が一人で、団員に花を配ってくれていた。自宅で摘んできたという、さまざまな色のスミレが180人分、箱にびっしり詰め込まれていた。意地悪そうに見えたその人の温かい気持ちが伝わってきた。
 このときにミサは、演奏中に拍手や掛け声がかかったりしてびっくりしたが、ミサとミサとの間やアンコールに「ずいずいずっころばし」などの日本の歌も演奏し、和やかな雰囲気に包まれた。私の持論「音楽は宗教を超える」が実感された経験でもあった。
 私は東京オラトリオ研究会、新星日響合唱団、東京ライエンコーア、コーラスアカデミーなど、いくつかのアマチュア合唱団の指導をしている。それらが集まって、ともに海外公演をするときの総称が東京オラトリオソサイアティである。87年にドイツのハンブルクにあるペトリ中央教会で、教会の合唱団と共演して以来33回、欧米各地に招かれて歌った。
 オーケストラつき合唱作品の中心は宗教音楽であり、欧米ではクラシック音楽の土台を宗教音楽が固めている。合唱指導を生業としてから30余年になるが、宗教音楽が愛され、歌い継がれている現場に立ってみたくなったのだ。幸い、合唱団には外国人団員も多く、「こういう教会で日本の合唱を求めている」といった話が舞い込むこともしばしばだ。国内外での私たちの活動を知って、声をかけてくれることもある。

 ## 希望者はだれでも ##
 私たちの合唱団は選抜メンバーを海外に送り込むのではなく、希望者はだれでも行くことができる。常に「現地集合、現地解散」をたてまえとし、旅行の手配も各人が行い、費用も自弁だ。現地の協力を仰ぎ、なるべくホームステイで滞在することを心がけ、普段着の交流をはかっている。今年3月、中世の町並みを残すオランダの小都市マーストリヒトを訪問したときは、参加者が皆、現地の細やかな歓迎ぶりに感じ入った。千年の歴史を誇るセントセルファース教会でブラームスのドイツ・レクイエムの合唱を担当したところ、総立ちの拍手で迎えられた。町を歩いていると、「乗っていかないか」と車から声をかけてくれたり、洞窟見学の送迎をせっせと務めてくれたり、実に親切だった。
 マーストリヒトに先立ち、ドイツ・ケルンのフィルハーモニーホールでJ・Sバッハの「マタイ受難曲」を演奏した際、現地でホームステイした女性は滞在先の老夫婦に練習法をしきりに聞かれた。多少おかしい発音があるとはいえ大変よくできたドイツ語なのはなぜ?というわけだ。
 まずリズム読みをいくども繰り返し、さらにリズム読みとパート別メロディーを入れた二種類のテープを使って自習できるのだと説明すると、ぜひテープを聴きたいと求められたそうだ。音楽好きだが他国語で歌うときに苦労していたこの老夫婦には驚異だったのだろう。
 同じドイツのシュツットガルトヘ7年前に行ったとき、30キロ離れた村のきれいな教会でヘンデルの「メサイア」を歌うことになった。11月で、ものすごい寒さだったにもかかわらず、村の人たちは毛布持参で熱心に聴いてくれた。だが、お客の入りは悪く随分赤字が出たようだ。「申し訳ないが少しカンパしてくれないか」と言われて、心ばかりのものを置いてきたこともあった。
 2000年1月1日はイスラエルで迎えた。昨年6月、東京でベルティーニ指揮の東京都響と私の合唱団が共演した際、終演後にマエストロの楽屋に呼ばれ、ミレニアムを記念したベートーヴェンの第九コンサートに出演できないか、という依頼を受けたのだ。すぐれた弦楽器奏者をそろえるイスラエル・フィルとチェコのプラハ合唱団とともに公演に参加できたのは素晴らしい体験だった。

 ## 「赤とんぼ」に手拍子 ##
 イスラエル・フィルの本拠地であるテルアビブの大きな会場はサッカー場かと間違えるほどの熱気に包まれ、私は音楽のあるべき姿を改めて思い知らされた。終演後、衣装を着たまま会場の外に出ると、そこの広場には300人くらいの聴衆が残っていて、ニコニコしながら、こちらを見ていた。私はとっさに指揮をし、何かのときにと準備していた「赤とんぼ」を団員に歌わせた。広場に手拍子の輪が広がった。
 ザルツブルグ大聖堂、ダブリン聖パトリック教会、ベルリン・ゲッセマネ教会・・・・。これまでに歌った場所には、それぞれに思い出がある。
 行くだけでなく、受け入れるのも私たちの仕事で、この16日に東京芸術劇場で行われる新星日響の「マタイ受難曲」演奏会には、ドイツで活躍するバリトン歌手、李建郁さんを迎える。私は常々団員にこう言っている。私たちのやっていることは世界の中心ではないかもしれない、だが中心に影響を与えるような活動でなくてはならない、と。これからも、その気持ちを失わずに宗教音楽、このきわまりない世界に取り組んでいきたい。
                         (日本経済新聞2000・7・13掲載)

 2005/8/7(日)の「戦争レクイエム」(東京芸術劇場)には韓中独米からソリスト・合唱団を迎え、ホームスティなどの交流を行います。
 また、海外公演は2005年11月に韓国でヴェルディ「レクイエム」公演を予定しています。

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≪「無理は禁物」はおたがいさま?≫
 
 昨年中は色々お世話になりました。
 新年早々私事で申し訳ありませんがお知らせします。
 昨年暮れより、楽譜や文字の識別が多少困難になっており 乱視が進行したと思っていたのですが 12月31日夕方、左眼だけでは文字や色の判読が不可能であることを発見し杏林大学病院の救急外来にて診察を受けたところ、血圧が210-110と異常に高く網膜静脈枝閉塞症と診断され新年4日の診察開始まで安静を言い渡されました。
 今後、多々ご迷惑かけると思いますがよろしくお願いします。

 以上は、今年の1月に親しい人達に送った私の新年の挨拶状でした。
 実はその後も、左目の視力は依然として回復せず、昼間は車の運転に支障はないが、夜になると少々危ない状態。
本人曰く「私はピアノも弾ける運転手だから一緒に往復出来るときは私が運転してあげる。」と気軽に申し出てくれたピアニストの小林牧子さんに感謝である。

 昨年の10月にも咽喉の声帯の手術をし、それは医者も吃驚するほどの驚異的な回復力で、大声は出せないものの音程を取るには支障なく、性能のいいマイクをカンマーザールのM嬢が探してくれたおかげで、そのマイクを使えば練習には支障なく、発声練習などは親しい若い歌い手に頼んで何とか練習ができそうだと思っていたが、その矢先、余りに油断をして、興にのり大声を出しすぎたせいか、またちょっとペースダウンをしなければならなくなったようである。

 ところで、小平コーラス・アカデミーにTさんというテノールの主のような方がいるが、彼から「17日に手術が決まりました」と元気な電話が入った。彼はバッハの「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」等を歌い続け、バッハの作品での出演回数は、日本では最も多いテノールだと思う。要するに、日本のバッハ音楽の底辺を支え、屋台骨を守り続けた無償のテノール、その人である。彼が元気になり、また一緒に歌えることを神に祈った。
 合唱団には、大病から復帰し、元気に歌っている人がたくさんいる。昨日もメサイアの練習に「先週病院から退院しました。声は出るかどうかわからないけれどトライしてみます。」とベテラン女声団員がきてくれた。歌うことで、血液の循環が良くなり、いろんな人と一緒に歌うことで精神的活性化に繋がるなら、これに越したことはない。無理をせず、長く歌い続けて欲しいのは私の心からの願いである。


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≪記憶にない・・・ 〜昔の合唱団員の話1〜 ≫

 5月22日東京芸術劇場でのコンサートのあと、その昔僕の指導した合唱団にいたという初老の方と偶然出くわした。「郡司さんに練習中"出て行け!"と言われた。私が出て行こうとすると、"あなたは僕が死ねと言えば死ぬのか"と言って出て行くのを制した」という。もちろんそんな理不尽なことを言った記憶は僕にはないが、どうも20代の頃だったらしい。こんな被害者や犠牲者を多く出しながら僕は30数年の合唱指揮者としての道を歩んだのである。
 昨年、東京都交響楽団の公演でマーラー『千人の交響曲』を3連続で演奏した折の指揮者ガリー・ベルティーニが今年の始めに亡くなり、合唱指揮者を共に務めた関屋晋さんも亡くなった。「次は郡司だ」という噂もあるようだが僕はまだ健在であり、多少丸くなり人間もできてきたと自画自賛しているし、やらなければいけないことがまだある。ぜひ楽しみにしてほしい。

 その後この話を聞いた合唱団員から「そのフレーズは確かここ10年以内にも聞いた事がある」と言われた。言われた本人や回りは覚えているが、言った本人は最近のことも覚えていないということか。案外合唱団員の中にはこの事を覚えている人がいたりするのかも。だが、僕に”過去こんな理不尽なことを言われた・言っていた”とメールを送ってくるのだけはどうか勘弁していただきたい・・・(笑)

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≪東京都交響楽団の契約楽員制度導入に一言・・・≫

 <東京都交響楽団(都響)>が契約楽員制度の導入に踏み切った。これは東京石原都政との一年数ヶ月に渡る交渉の結果で、楽員側(ユニオン)の全面的敗北、譲歩による結果といってもいい。「安心して働ける事が良い演奏をする保証である」と言い続けてきたユニオンが妥協したのだ。それも全員一致の決定だという。これでは「これからは生活不安があるので良い演奏はできません」と社会に公言したに等しい。
 二十数年、毎年私が指導する合唱団は都響と共演してきたし、都響創立20周年記念の「千人の交響曲」の合唱指揮も担当したりと少なからぬ関係があったわけだが、都響・ユニオンから、この問題についての説明や訴えは一度もなかった。私は、常々共演する度にこのオーケストラへの強い不満を持っていた。それは、アマチュア合唱団と共演する時に喜びがみえてこない又は手抜きではないかと思う演奏に何度か接していたからであり、まして、学校公演の時には有給休暇をとってしまう団員がいることも聞かされていた。
 一般の社会に比べても労働時間の短さは否定できないし、練習が少しでも伸びれば抗議があり、早く終われば拍手で一目散に帰ってしまう。また、現場の担当インスペクターなどには明らかにアマチュア合唱団を共演者として尊重しない態度が見られた。共演するアマチュア合唱団こそ最も身近な聴衆であり、子ども達こそ未来の有望なオーケストラファンなのである。アマチュア合唱団には絶えず初めて合唱をする人、初めてオーケストラと歌う人がいる。その人たちにとってオーケストラと歌うのは、予想を絶する緊張感を強いられるものである。
 この度の事件は、やがては自主オーケストラでないNHK交響楽団の雇用関係にも影響を与えるだろうし、プロ野球巨人軍の低迷の折、読売日本交響楽団にも影響が出るだろう。
 新星日響が解散するときの最後の理事会・評議委員会はいつの間にか圧倒的多数が会社経営者、学校経営者、それにつながるコンサルタントらによって占められ、何の議論もなくスムーズに合併が決められた。これが日本のオーケストラ界の激震に繋がると危惧したが、全くその通りになった。当時、都響の楽員(ユニオン)は全くと言っていいほど新星日響の合併問題に無関心だった。
 私の人生は第4コーナーを回り、最後の直線コースに入った。アマチュアがどれだけ苦労して一つのコンサートを経済的にも、音楽的にもやりきろうとしているかを身をもって感じて欲しい。そのことができるプレイヤー集団<オラトリオ・シンフォニカJAPAN>の発展こそが、日本の音楽文化の根底を支える大きな要になるであろうことを、その直線コースで示そうとおもっている。

オラトリオ・シンフォニカJAPAN(5/5更新分)にも同じ文章を載せています。

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≪専属ピアニストとの出会い〜噂の真相〜≫

                (新星合唱団機関紙 BRUDER 05-17号より)


                        新星合唱団ピアニスト 小林牧子

 新星合唱団創立30周年おめでとうございます。
 “熊みたい”髪はパーマをかけ長髪、髭ぼうぼう、ヨレヨレのTシャツに継ぎはぎだらけのGパン。「今朝、地震があったでしょ。1間しかない6畳間に家族4人で寝てたら、裸電球が落ちてくるかと思う程揺れてさ・・・。」
 大学4年の秋、小平に引っ越してきた私は、母に懇願されて、家から自転車で5分程の公民館でやっているママさんコーラス“さくら”に入団した。
 それから1年間、熊のような郡司先生が大学の先輩だと分かるまで義理で来ているつもりが、毎週木曜の午前中、うきうきと公民館に通った。なぜだろう、練習が楽しいのだ。音楽の練習が楽しいなんて。
 1年後、先生は私が音大のピアノ科出身だと知ると、瞬間ポカンとして、「伴奏する?新星日響合唱団というのが火曜日、水道橋で練習しているから見に来ない?」とすぐにおっしゃった。
 “たまげた”300人はいたと思う。その日、初日だというのに、フォーレのレクイエムをどんどん歌っていく。まん中にいる先生は、小平にいる時とは別人だ。なんで先生が棒を振るとピアニストが音を出すんだろう。どうして、先生が棒を振ると合唱団が歌うんだろう。
 「あんなに沢山の方達の伴奏をするのは私には無理です。」
 「いいの!いいの!300人のうちの1人に伴奏してくれればいいの。1人でいいんだよ、1人。ね!300人のうちの1人だから。」
 高校の音楽の先生が趣味と仕事が一緒になったら幸せだよ、とおっしゃっていた言葉をよく思い出す。今日もこうして、皆さんの合唱の伴奏をさせていただいている。
 今はなくなってしまったさくらコーラスに感謝。
 そして郡司先生に・・・感謝。


 二十数年前、小平市の上水南公民館で何気なく「何か弾いてみて」と言ったとき、それまでと一変して彼女はためらう事もなくラフマニノフのピアノコンチェルトの一部を弾き始めた。その狭い集会所のアップライトピアノは、見事に鳴り響きコンサート会場と化した。こんなピアニストに伴奏してもらったら合唱団員は喜ぶだろう思い、この時から彼女に僕の教える合唱団でピアノを弾いてもらうことになった。
 その日からこれまで、エリアフ・インバル氏、オットマール・マーガ氏、バスカル・ヴェロ氏、ガリーベルティーニ氏・ペーター・セルペンティ氏・ハンス・ヨアヒム・ロッチュ氏・オンドレイ・レナルト氏・ヴォルフディーター・マウラー氏・チェ・ビョンチョル氏らと共演したが、全ての指揮者が彼女を絶賛した。ある指揮者など「ドイツに連れて帰りたい」と言ったほどだ。だが、残念なことに彼女はその時すでに結婚していて単身赴任の道よりもピアノを弾きながらのたのしい結婚生活を選択したのである。

 これが僕の専属ピアニストである、小林牧子さんとの出会いの真相で、”彼女が夜バーでピアノを弾いていたところを僕がスカウトした”という、一部の合唱団員が信じた、いつもの笑い話もこれで出来なくなってしまった・・・(笑)郡司

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≪「戦争レクイエム」の演奏会に想うこと≫

 1955年のバンドン会議以来50年ぶりで開かれたアジア・アフリカ首脳会議は、植民地の解放と民族独立の流れを踏まえ両大陸の連帯・協力をうたって閉幕した。会議には50カ国以上の首脳を含む100カ国余の政府代表が参加した。宗教の違いはもちろん、アメリカと軍事同盟を結ぶ国、非同盟の国、社会主義を目指す国、非共産主義の国が集まった。その精神は「人類が救済しうるのは憎悪や暴力によってではなく、慈悲・平和・好意によってである。」ということ。
 今年8月7日私達は「戦争レクイエム」の演奏会にドイツ、韓国、アメリカから合唱団を迎え、ソリストに日中韓からの声楽家が加わる。前プロはK.ペンデレッキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」に決まった。原爆投下からわずか数秒で命を(死者には何が起こったのかもわからず)焼き尽くされ、また苦しみながら死んでいった人々への哀歌である。この作品はそのわずか数秒間を描いたといえる。それは人間の犯した残虐な罪を表現した音楽におもえる。
 しかし、それ以上の残虐を多くのアジアの国々で犯してしまった日本で、この戦争終結60年にあたって新星合唱団、東京オラトリオ研究会というアマチュア合唱団が主催するコンサートにこれだけの人たちを海外から迎え、それもホームステイで行う意義は計り知れない。一泊でもいい、二泊でもいい、一食でもいい、二食でもいい、彼らと一緒に過ごすことが二度と人類が過ちを犯さない契りになればと思っている。私が今に出来るのはこの呼びかけである。

 ブリテン「戦争レクイエム」 公演情報&チケット申込
  2005年8月7日 14:00開演 東京芸術劇場大ホール(池袋)
  指揮:ホルスト・マイナルドゥス(独)
  管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
  ソプラノ:李 善美
(韓) テノール:望月 哲也(日) バス:彭康亮(中)
  合唱団:新星合唱団、戦争レクイエムを歌う会
       韓国オラトリオ合唱団
(韓)及びケルンフィルハーモニー(独)
  児童合唱:
オーケストラとうたうこども合唱団
       荒川少年少女合唱隊
       サンフランシスコ・ガールズ・コーラス
(米)

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≪長年連れ添った?ムーちゃんのこと≫

 私が合唱団の指揮を始めた時、テノールで歌っていたのがムーちゃんである。だからもう35年以上のつきあいになる。彼の奥さん妙子さんは、大阪の合唱団で歌っていて、今でいう遠距離恋愛で結ばれた。大阪でのコンサートの時、僕は一緒に行かないかと誘われ、のこのこ付いていったが、いつの間にか一人ぼっちになって、さびしく安い木賃宿に泊まったことを覚えている。多分デートしていたに違いない。それから2〜3年後代々木の全理連ビルで仲間たち主催による暖かい結婚式が催され、指揮者外山雄三氏からの祝電も披露された。
 彼は実に真面目なサラリーマンというより労働者である。朝早く出かけ、自分の仕事の責任を果たし終わるまで残り、誰よりも遅く家路に着く。働き盛りの頃は練習に出られない時が何年も続いた。そんな中でも歌い続けてきた。
 この3月15日定年を迎え退職する筈だったが、後任がいないということで延長になり、勤務先で4月に脳梗塞で倒れた。幸いにも軽症だったが、退院したムーちゃんに電話をして、「タバコと仕事はもうやめろよ」というと、にやにやと笑いながら「心配かけて悪かった」とはっきりとした口調が返ってきた。退職したら温泉に行こうと約束していたのに、それも少しのびそうだ。
 ムーちゃんのことはひとごとではない。冗談で言っていた事が本当になってしまった。ゆっくりと時間をかけて体を元に戻し、元気に第二の人生に踏み出して欲しい。心からの祈りである。

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≪ガリー・ベルティーニ氏、関屋晋氏の訃報≫

 昨年5月のマーラー「千人の交響曲」の指揮者、ガリー・ベルティーニ死去のニュースが新聞に載り、東京都交響楽団からも連絡があった。
 僕が彼と会ったのは、あの横浜みなとみらいでの「千人」が最後になってしまった。イスラエル・フィルでの「第九」(2000年1月1日)、新宿文化でのヴェルディ「レクイエム」など共演の思い出もあるが、客席からのベルティーニは、ステージに出てきただけで客席の後ろまで集中させてしまう何かを持っていた。マーラー演奏の軌跡を残した業績は、音楽史に刻まれるに違いない。イスラエル・テルアビブの市街地でバッタリ出会いフィルハーモニーホールまで歩いた数分の興奮が今も胸に焼きついている。
 マーラー「千人の交響曲」を3日連続で行ったこのとき、同じく共演したのが関屋晋先生の指揮する晋友会だった。私が関屋先生の悲報を聞いたのは4/10のモーツァルト「レクイエム」のGPの直前だった。個人的には親しくはなかったが、氏の活動や考え方には興味があった。先月世界的巨匠ベルティーニが亡くなり、いま日本の合唱界の巨匠もこの世を去った。なぜか二人のことが心の片隅をよぎりながらのコンサートであった。彼らに共通したものは厳しさであった。彼らを乗り越える音楽家がこれから何人出てくるのであろうか。

 マーラー「千人の交響曲」は、2004年5月18〜20の3日間公演された。
  指揮:ガリー・ベルティーニ氏(東京都響交響楽団)
  合唱団:晋友会(関屋晋氏)
       新宿文化25周年記念合唱団、児童合唱団(郡司博)

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≪新星合唱団 創立30周年へのメッセージ≫

 これほど音楽界の時代の流れに翻弄され続けてきた合唱団があっただろうか。 創立当時はプロオーケストラの定期演奏会にアマチュア合唱団が出演するなどもってのほかと批判を受けた。しかしその後、バブル崩壊による音楽界の厳しさの中で、他のプロオケも自らアマチュア合唱団持つ時代がきた。
 新星合唱団は、新星日響が財団化するにあたり、強大な力を発揮し、その後も支援組織としての役割を果たしてきた。そして4年前、東フィルとの合併問題にまきこまれながら、独自の道を選択した。新星というオケを支援してきた一人一人の団員は何を思い、何を考えたのか私は知る由もない。
 私の人生はこの合唱団とともにあったとも言える。最も苦しいときにそばにいてくれ、また、私の合唱指揮生活30周年でも、朋友ジェフリー・リンクのもとで念願だった難曲プーランク『スターバト・マーテル』を見事に演奏してくれた。 そして、この30年間、共演回数最も多かった、指揮者オンドレイ・レナルト氏をスロバキアから迎え、名曲中の名曲ドヴォルザーク『レクイエム』を演奏できたのはこの上ない喜びであった。そして、来年は再びレナルト氏を迎えてブラームス「ドイツレクイエム」を歌えるのである。
 合唱指揮者は加齢と戦いながら、その役目を全うしなければならないが、合唱団はどんなに年輪を重ねても、いつでも若返る力をもっている。これまで同様、いつまでも人々を勇気づけ、喜びを与え続けてくれることを心から祈っている。

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≪ベルリオーズ『レクイエム』本番を終えて≫

   2005/3/14(月)19:00開演 新宿文化センター
    指揮:高関 健
    管弦楽:東京都交響楽団
    テノール:福井 敬
    合唱:新宿文化センター『レクイエム』合唱団

 演奏会は、魔物である。大編成のオーケストラと東西南北に置かれた金管楽器のバンダ集団。それに250人の大合唱団。それらが一人の指揮者によって、統率され、一つの音楽を作り上げる。会場を埋めつくした聴衆も、固唾を飲んで見守り全神経を集中させる。
 ステージ上も客席も、ほとんどの人がこの作品の生の音を耳にするのは、始めてに違いない。私は会場の一番後ろで、指揮者のタクトを見ながら、一つ一つの音を確認するかのように、ドラマの進行を聴いていく。
 5ヶ月間に及ぶ、厳しい練習をしてきた僕も、今は一人の聴衆でしかない。演奏のことを言えば、持てる力を100%以上出しきれたと思うし、緊張感を要求される出だしもよく集中力を発揮した。細かいミスが私に聞こえなかったわけではないが、その時その人々にしか出来ない音楽を高みにまで到達できたことは、聴衆の拍手が何より語っていた。男声全員による<Tuba mirum>は、金管楽器の大音響に負けることなく、高らかに歌い上げていたし、テノールの<Quis sum miser>はオーケストラの音色に添い美しかった。<Rex tremendae>の迫力もオーケストラと調和していたし、女声群の<Sanctus>は、オーケストラの響きに意味を加えたし、天上の声として聴こえてきた。
 この作品は、ドイツ音楽や、イタリア音楽と違って、音色感豊かなフランス音楽の代表作といえるものであり、マーラーの「千人の交響曲」と比べても、高度なテクニックが要求される。もっと言えば、そのテクニックこそが、この作品の命と言える。アマチュア合唱団、それも一般公募による合唱団による演奏など、世界に類を見ない試みであったであろう。
 今回少なくないメンバーが、ステージに立つことが出来なかったのは残念である。私の40年近い合唱生活の中で初めてだとおもう。しかし、アマチュア合唱団と共に生きてきたものとして、無限の可能性をもとめ、力を出しきれた事は合唱指揮者冥利につきる。
 練習が始まった10月、私の声帯は、異常を訴え、病院から通いながらの練習もあり、最後までやれるかどうか不安もあったが、練習に来る度に、そこにいる合唱団員に励まされて最後までやりきれた。
 
指揮者高関氏は、音楽的にはもちろん、人間的にも、多くの人の支持と期待をこれからも集めるに違いない。今、スターダムにのし上がろうとする指揮者が多い中で、彼のような堅実で知的な指揮者こそ必要なのだ。
 
オーケストラ都響は、都からの助成削減問題で揺れ、それを跳ね返すべき活動を展開しているが、オーケストラも聴衆と共演する人々(合唱団を含む)に支えられてのみ、その活路が開けるのではないだろうか。個人、組織、集団に関りなく好不調の波はあるが、聴衆や共演者の側からみると、手抜き演奏に聞こえてしまうことがあるのも残念な事実である。今、外来アーティストと、それらと手を結んだ大手音楽事務所が日本の音楽文化を理不尽といえるくらい荒らしている中で、日本の演奏家・音楽家が最も必要とするのは、聴衆であることを今一度認識すべきなのではなかろうか。
 今回の演奏会の成功の大きな原動力に<都響があったのは、教訓的であり私には感動的なものであった。
 最後に、この美しい作品を我々に残してくれたベルリオーズに感謝である。


 新宿文化センター『レクイエム』合唱団は、一般公募によるアマチュア合唱団。360名余りが10月13日より40回を越える合唱練習を重ねたが、新宿文化センター初演となる難曲のため、新年早々に中間考査=テストを実施。本番には262名が参加した。

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サタさんと東京大空襲≫をはじめて読む方はこちらからどうぞ。


(3/31更新)
万枝さんのエッセイには色々な反響があった。
手紙も数多くいただいたが、その中に同じような体験をした方のものもあった。
 次に掲載させて頂くのは 若い女性からのメールで、合唱団員のお嬢さん。お母さんは20年以上歌っていて年は取っているはずなのに、いつまでも若く見える。
 高校の教師の旦那と結婚生活を始めた当時、近所の人が『中年男が中学生を家に引き込んでいる』と警察に通報しおまわりさんが来たほどの童顔の美(?)少女でそれは今でも変わりない。
 いつだったか土浦の友人佐藤宏之のお母さんが亡くなった時、車で常磐道を送ってもらったが、あの時の恐怖はいまだ脳裏に焼きついている。赤い軽乗用車で大型トラックをどんどん追い抜くのである。両側にトラックのタイヤが轟音をたてる。僕は恐怖のあまり絶叫し、懇願したがお構いなし。挙句に『先生練習ン時にゃえらそうな事言ってるけど肝っ玉ちいせえんだねー』・・・それ以来≪飛ばし屋のおっかさん≫と呼んでいる。仕事は受験生や勉強についていけない子供たちの救世主的役割の講師をしている。

そのお嬢さんからのメールを本人の許可なく掲載しました。

合唱の練習は母におどかされていたので、
内心とてもビクビクしていました。今は楽しくてしかたがありません。
真夜中にキーボードを叩き、真上で寝ている兄を怒らせていた
毎日でしたが、今は、パートCDを大音量で鳴らし、
大声で練習を繰り返す毎日に変わりました。
先日兄に「壁を向いて歌え」と言われました。
うるさくて気が狂いそうだというのです。

母と「ジンガロ」を観に行った時、ちょうど深川の辺りを歩きました。
途中、ここが東京大空襲で被害にあった場所だということなど、いろいろ話をききました。
夜、NHKで東京大空襲の特集番組を見て、どんな爆弾が投下され、
どれだけの人が被害に合ったのかをあらためて知りました。
そのすぐ後です。《サタさんと東京大空襲》を拝見したのは。

サタさんはテレビで戦争の物語やドキュメンタリー番組があっても、
一度も見た事はありません。
靖国神社へは一度行きましたが、
二度と行かず慰霊祭ものぞきませんでした。

この言葉を私の友人たちにも知らせたいと思いました。
私も含めて何にも知らないからです。
こんなにひどい戦争を経験していながら、
自衛隊がアジアの国に派遣されていくのをだまって見ている。
みんな、「しょうがない。関係ない。」というのです。
歩きながら戦争の話を語っていた母と、万枝さんの手記をご自分のHPに掲載された先生の思いがつながっているように感じました。

仕事から戻るとNEWマークがついていないか必ずチェックしてしまいます。見つけると母を呼び寄せ一緒に読んでいます。
仕事が忙しく、しばらく練習に参加できなくて残念です。
これからもよろしくおねがいします。
        日曜日 モツレクの練習に参加している 原 未来です。

(返信)
  初メールありがとう
  おっかさんにはいつも感謝しています
  でもあのスピード狂なんとかならないかなー
  でもゆっくり走ってるおっかさんってつまんないかも  ぐんじ

例の高速道路で僕は一度命を落としかけているので、お嬢さんへの返信はおかあさんへの感謝から始まったのである。


≪サタさんと東京大空襲≫に寄せて
 僕は3人兄弟の末っ子で、一番上の姉はもう他界し、4歳上の兄が近くに住んでいる。万枝(かずえ)さんは兄の奥さんで中学の同級生。万枝さんのお兄さんはすでに亡くなっている。東京大空襲の中で万枝さん家族は必死で逃げ、生き延びたという。
 万枝さんは兄と結婚する前から保母をしていて定年を迎えるまで働き、実のお母さん<サタさんを富岡の老人介護施設にあずけ退職の翌日から献身的に90歳を過ぎた僕の寝たきりの母の看護を引き受けてくれた。月2回兄と二人でサタさんに面会に出かけていた。サタさんの背中はまるで“く”の字のように曲がり、働き続けてきた、その証のようだった。しかしサタさんからは苦言や泣き言を一度も聞いたことはなく、いつも笑顔の人だった。昨年のドヴォルザーク『レクイエム』演奏会の日、92歳で亡くなったサタさんの葬儀は親族だけのささやかなものだったが、私はサタさんの好きだったという演歌をうたいその霊前に捧げた。
 今年3月10日に僕の兄から届いた手紙の中に万枝さんの手記が添えられていた。多分実母への追悼の意を表したものだろう。同じ思いでこの日を迎えた人も少なからずいたはずである。ここにその手記を載せさせていただく。

≪サタさんと東京大空襲≫
                                   郡司 万枝
 60年前の3月10日。
 サタさん親子は東京の下町・深川に住んでいました。当時33歳のサタさんは夫が出征したので、7歳の長男と4歳の長女を育てながら、近くの工場で働いていました。その日もいつもと変わらず眠りにつきましたが、夜中突然爆音に叩き起こされました。
 街は、家財道具とともに逃げ惑う人々で混乱していました。長女を背負い、長男の手を引き、勤めていた工場にやっと辿り着きましたが、建物の中は、火の手を避ける人々で、またたく間に溢れました。
 危険を感じたサタさんは、暗闇の中で手に触れた冷たくぬるぬるしたものを自分と子供の体に塗りつけ、工場を抜け出しました。子供が泣きながら「あつい、熱い」と言うので見ると、靴下のまま歩いていたので、無理におしっこをさせ、それを踏ませて火のないほうへと当てもないまま歩きました。持ち出した家財道具を捨てる人も多く、それらに火がついて道路は焼けるように熱いのでした。 川には水があるはずと、隅田川に来ましたが、浅瀬は人々がいっぱいでもう三人が入る隙間もありませんでした。やがて橋も焼けはじめ、火から逃れるため欄干から飛び下りる人もいました。左右前後、どちらも火の海・・・もう逃れるのは無理と、サタさんは拾った鉄兜を男の子にかぶせ、拾った布団にもぐりこみ大道通りの真ん中にうずくまる人々に身を寄せて息を潜めました。その中の一人の丹前姿の男性の帯に火がつき、「助けてくれ!」との叫びに、「帯を解け!」と絶叫し、皆で消そうとしましたが火の勢いに転倒、独楽のように回転しながら目の前で焼死し、残る人々はますます死を覚悟しました。
 下町の木造家屋をなめつくした火の手は、捨てられた家財道具、川に立ち尽くす人々の頭髪、衣服までことごとく焼き尽くしました。コンクリートの建物に非難した人々は蒸されて酸欠窒息死。逃げ惑う人々の人々の下敷きになり圧死、川での凍死、ショック死も含め十万人以上が亡くなったと後に知りました。サタさんが自分と子どもたちの体に塗りつけたものは、工場の床を洗うための練り石鹸で、とっさの知恵が熱風から身を守ったのです。
 やがて朝が来ました。煙がくすぶる街を眺め、サタさんは助かったと確信しました。焼死した人々が路上に、丸太のように黒々と転がっていました。「こわいよう!」と泣く男の子の手を引き、死体をまたぎながら歩きました。出動した消防自動車の下に火をよけるためかもぐり、その姿のままなくなった人もいました。赤子に乳を含ませながら横たわる姿、防火用水の中に沈む姿、それらを母親の背におぶわれて見たことを、女の子は今でも覚えています。
 ようやく我が家にたどりつきましたが、二階の物干しに置いた自転車が飴のように曲がっておちていました。玄関に疎開のために積み重ねられた行李も、飾りつけた蝋人形も瓦礫と化し、跡形もなく消えていました。
 「うちの子供を、見ませんでしたか?」振り向くと仲良くしていた近所の方が、「家を出るときは、二人の手を握っていたのに、気がつくと私の手には、子供はいませんでした。確か花柄の洋服を着ていたので・・・」熱でゆがんだブリキのバケツを抱え、くすぶり続ける焼け跡に子供を捜していました。女の子はバケツの中に見えたものを今も忘れることは出来ません。
 8月の終戦まで混乱は続きましたが、サタさんと二人の子供は生きながらえました。戦地の夫から、「貯金はすべておろし身につけるように」と便りがあったときから、腰につけたものを守り、夢中で働きながら山も谷も越えてきました。
 待ち続けた夫は、昭和22年4月、引揚船の中で発病し舞鶴に着いたときは遺体でした。サタさんはテレビで戦争の物語やドキュメンタリー番組があっても、一度も見た事はありません。靖国神社へは一度行きましたが、二度と行かず慰霊祭ものぞきませんでした。
 戦後も休むことなく働き続け、92歳までの人生を全うし、平成16年9月、「もういい」と言い残して、夫の待つ冥土へ旅立ちました。背おわれた女の子は今でも母親の背のぬくもりを覚えています。

 サタさんは私の母です。「あの戦争を経験した人々は、立場は異にしても今でも何かを背負い生きている」と強く思うのです。


 この日のNHKの特別番組は、当時「大本営は10万人以上が焼け死んだこの事実を一切報道しなかった」と最後にむすんだ。

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≪軌跡〜新星合唱団と安達団長のこと〜≫


 新星日本交響楽団が設立されて5周年のコンサート、プロコフィエフの『アレクサンドル・ネフスキー』を取り上げることになった時、指揮者外山雄三氏と水道橋の改札口で、ばったり会って、「君、合唱団を作って、プロコフィエフの作品をやったら?」と言われ、これがきっかけで、この合唱団は始まった。最初の練習は、10人前後で、他の合唱団を頼んでの公演だった。
 2〜30人の小さな合唱団の時代が、5年ほど続いたが、ドイツからハンス・レーヴライン氏(後に彼のスイスの家に数ヶ月間滞在し、無料でレッスンを受けた)を招聘してモーツァルト『レクイエム』を公演した時、団員が急に200人にも膨れ上がった。それが現在の新星合唱団の始まりである。詳しくはホームページにその総てが掲載されている。
 新星合唱団長の安達さんは、編集を生業(なりわい)としていて、「鹿島アントラーズ」とシューベルトの『冬の旅』の熱狂的なファン。カバンの中には、いつも、アントラーズの真赤なジャンパーと『冬の旅』の古ぼけた楽譜が入っている。合唱団のピアノを弾けるかわいい女の子に頼んで『冬の旅』のリサイタルを2回も公演した。3回目の予定はまだないところを見ると、ライブテープを聴いて反省しきりというところか・・・
 また、私の唯一の名著「ロッチュさんと語る」を無料で編集してくれたのが、安達さん。その中に彼が独断で書き足してくれた名文がある。そこには彼の見識の深さが滲み出ている。そのページを読むだけでも価値がある。ご覧いただくには、この著書を600円で買っていただかなくてはならない。在庫僅少。

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≪軌跡〜俺たちの交響楽・ライエン・コーア〜≫


 私は、高校2年から八王子の南多摩高校の合唱部と柔道部に入り、放課後は合唱と柔道に明け暮れ、早朝と昼休みは、時計台のてっぺんにおいてある古ぼけたピアノで授業開始まで練習した。夏休み中は、オペラ『赤いろうそくと人魚』の舞台作りに精を出し、ソロは歌わせてもらえず、"エイコラホー"の合唱をやっていた。

 その後、音大を卒業して、昭島市の中神小の音楽教員となり、同時に3つほどの合唱指導を教員と掛け持ちしていたが、その中に映画「俺たちの交響楽」(松竹1979年、演出:山田洋次、脚本:浅間義隆)のモデルにもなった、合唱団「エゴラド」があった。主演は武田鉄矢で私の合唱指揮者役は田村高廣、その妻倍賞千恵子。予告編は私が同役で出演。あとにも先にも映画出演はこのときだけ。
 日本鋼管、東芝、荏原など大企業の工場がひしめく、日本の重工業地帯のどまんなかに生まれたこの合唱団は、若者たちでにぎわっていた。200人の団員の内150人が男声、女声は50人、今では考えられない状況である。
 しかし工場の地方移転と共にその若者たちも散り散りバラバラになり、15年で幕を閉じた。その間、『第九』や大木正夫作曲による原爆詩集の『人間をかえせ』、ベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』やビゼーのオペラ『カルメン』等を自力で演奏してきた。今思うと想像できないエネルギーだった。
 それから20年後、川崎の駅前にミューザ川崎という立派なホールが建ち、そのこけら落としの『千人の交響曲』に私が関わることになる。その地は昔東芝の工場があったところで、そこから何人もの若者たちが工場の匂いを漂わせながら練習に来ていたのを思い出した。
 その同じ時期に10年間、"三多摩第九合唱団"の合唱指揮も務めたが、うたごえ運動の指導的地位にあった事務局長と意見が合わず、その職を辞任し、"オーケストラと歌う三多摩市民合唱団"を設立。
 これが今日の東京ライエン・コーアとなっていくのである。

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 この文章は、2002年のコンサートのプログラムに私が投稿したものです。その翌年、八丈町の招聘により八丈島・八丈高校の視聴覚ホールで演奏する機会を与えられた折、團伊玖磨先生の八丈町の別荘であり書斎でもあった部屋に招かれ、ご子息の紀彦氏や島の人々と楽しい一夜を過ごしました。
團先生の書斎の机の上には、生前と同じように一本のパイプと愛用のペンと五線紙と原稿用紙が置いてあり、先生の笑顔の写真が私たちを微笑み迎えてくれました。氏の果たした業績をあらためて思わずにはいられませんでした。

≪團 伊玖磨 『岬の墓』に寄せ≫


 『岬の墓』は決して、反戦歌でも、抵抗の歌でもない。敢えていえば非戦の歌だ。天寿を全うすることなく死を遂げた、無数の人々への鎮魂の歌だと思う。この歌を歌っていると、無縁の墓の下から、彼らのうめきと、叫び、そして哀しみ、残した者への愛が迫ってくる。そして我々が何をしなければならないかも!
 團先生は一年前、愛した国、中国で亡くなった。先生の自伝<戦後50年にあたって>というエッセイの中からいくつかを引用させていただく。


 本年1995年の8月15日は、日本の敗北による第二次世界大戦の終結から丁度50 年、日本はもとより世界の多くの国々、多くの人々にとって、この日はそれぞれ特別な意味を持った日であると思う。とりわけ、日本の植民地支配下、占領下にあった国々、地域の人々にとっては“解放”“勝利”の意味を持った特別な日なのである。私達 は、その事の意味を、日本が過去と同じ誤った道を歩かないための重い礎とするためにも、忘れる訳には行かない。 〜中略〜
 かつて永い歴史の中で、文字、宗教、哲学、学問、芸術、医薬等々、巨大な文化の恩恵を受け、遣随・遣唐の使節・学生を送って善隣のよしみを通じたその“お返し”が 軍国主義による侵略であった事は、日本をして“不信用”のレッテルを押された国に したばかりか、その与えた余りにも巨大な損害に思いを致す時、戦後の日中国交正常化の両国共同声明の第5項「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」の世界的な有名な条項の大きさとの余りにも対照的な隔たり方に、私は熱烈な恥を思う。 〜中略〜
 重要な問題がある。それは被害者と加害者の問題の整理があやふやな事である。〜中略〜
 日本の「一部の軍国主義者」は戦争犯罪人として戦勝国側から厳しく追及され、断罪もされた。しかしそれは日本人みずからの手で裁いたものではなかった。ここにその後に尾を曳くことになる不徹底さ、被害者と加害者の位置のあいまいさの原点を見る思いがする。戦犯として裁かれたものが内閣を組織する事が平気で通用した国。このこと一つ取っても、日本が、かつて重大な被害を与えたアジアの諸国に対して、国と して厳粛に、誠意をもって対応しなかったこと、しようともしなかったことの証左である。 〜中略〜
 50年前、私は21歳の青年だった。今71歳に老いるまで、日本の戦後50年はさまざまな 試行錯誤を展開した。ただ、その50年間、一筋の光のように、強く、まぶしく、確として存在していたものは、文化・芸術の世界性と、平和世界実現のための文化交流の重要性、殊に、隣国であり、悠久の歴史の中に、我が国に量り知れぬ文化的恩恵を与え続けた中国との文化交流の重要性であった。〜後略〜

 私達も團先生の意思を引き継ぐべく、新しい道を模索している。

 今、この歌『岬の墓』をオーケストレーションし、日本が生み出した普遍的な作品の一 つとして歌い継がれていくことを願ってやまない。単なる想い入れや、悲しみではな く、希望と愛を表現できれば幸いである。

 團 伊玖磨 『岬の墓』はもともとピアノ伴奏用に作曲された。本公演に先立ち、5月6日にソウル・ナショナル・アーツ・センターにて初めてオーケストラ伴奏により演奏された。(指揮:郡司博、合唱:東京オラトリオソサイアティ、韓国オラトリオ合唱団、管弦楽:ソウル・ナショナル・シンフォニー・オーケストラ)

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