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2004/05/17 マーラー「千人の交響曲」

≪郡司博と仲間たち≫
メゾソプラノ≪郡 愛子
NPO事務局長≪島原 浩
テノール・指導者≪鈴木直人
ソプラノ≪佐々木理子

バリトン≪小田 清
合唱団の≪小さな仲間
指揮者≪古谷誠一
ピアニスト≪中村直樹
高校時代の≪友人たち
ピアニスト≪小林牧子
オーボエ奏者≪前川光世
ソプラノ≪小渡恵利子
テノール・指導者≪佐々木紀夫
指揮者≪山神健志

 合唱指揮者は一人では何も出来ない。せいぜい出来ても合唱団募集のチラシを撒く位。練習時にはピアニストが必要である。参加者から、確実に練習費をとりたててくれる恐い事務局がいなければならない。
それに大切な大切な合唱団員。

 コンサートのソリストは有名でうまくて、感動を与えてくれなければならない。そして、多少なりとも私たちの活動に共感が必要。このホームページに載る仲間たちが増えることを期待しつつ・・・
 親しい音楽家や仲間を随時紹介する。

 <郡 愛子>
メゾソプラノ
 郡愛子さん、あなたと最初に出会ったのは、30年前の新大久保の交差点。その時抱いた”大スターになるという直感”はあたっていました。その後、郡さんが歌うオペラやコンサートを何十回も聴かせていただき、私が主催するコンサートにも度々出演していただきました。リハーサルでも一切手を抜かず、完璧に仕上げてくる姿に、共演する合唱団員たちも毎回拍手喝采をおくっています。
あなたは、留まることを知らず、いつも挑戦し成長し続けた、たぐいまれな日本の歌い手だと思います。私はいつも郡さんを目標に頑張ってきました。
 今回の、30年歌い続け、生きてきた郡愛子の記念すべきコンサートは、私たち隠れファンにとっても聴かずにはおれないコンサートです。
 この30年の間、人は様々な歴史を刻んできました。郡さんもそのひとりとして、それらを歌に託し、ステージで様々な女性の人生を歌い上げ、人々を励まし続けてきたのです。私はふと、「郡さん、少しは休んだら」と声をかけたくなるのですが、今まで一度も言えずに来てしまいました。このコンサートが済んだら少しでも、いま合唱に参加してくださっているご主人と、米国留学中の愛息大君と身体を休めたらどうですか。そして次は35周年に向けてのスタートを切ってください。あなたの歌に励まされた多くのファンのひとりの声としてお聞きください。
※2005.11.21(月)19:00開演 東京芸術劇場大ホール
   郡愛子30周年記念リサイタル「生きることは愛すること」
   お問合せ:サウンド・ギャラリー 03-3351-4041
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 この私のHPが開設したその日、東京芸術劇場で新星合唱団と文京区民オーケストラ のマスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』が演奏されていた。その主役はまぎれもなくこの人、郡愛子だった。私も長い間彼女の歌を聴いてきたが、こんなにも高音が続く曲を見事に歌いこなすのを聴いたのは初めてだ。やはり彼女にはまだ未発見の可能性がたくさんあり、いつも挑戦し続ける芸術家である。合唱団員として共演した旦那は、打ち上げで会費の分以上に遅くまで飲み、彼女は翌日からの演奏会のために先に家路に着いたようだ。(未確認)↑top

 クラシックファンならずとも、この人を知る人は多いだろう。コンクール受賞・留学共に経験なしという所まで僕と同じ。彼女の事を「女神の声」と疑わない全国愛ちゃんファンの代表のようなマネージャーの太田さんというパートナーがいて、ますます磨きがかかり、リハーサルでも一切手を抜かず共演する合唱団員に毎回拍手で送られる。ご主人も最近、職場の同僚と一緒に合唱を再開した。
 女流音楽家の亭主は職場でどんなに地位が高くても、仕事帰りに近くのコンビニで枝豆とビールを買って、わびしく巨人戦をテレビで観る日々が続く事を我慢しなければならない。彼程の旦那を見つけるのは宝くじを1等・前後賞併せて当選するより難しいだろう。
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 <島原 浩>NPO「おんがくの共同作業場」事務局長
 7月20日朝、驚きの一報が入りました。NPO事務局長の島原さんが、庭の枝木と格闘中脚立から落ち、左手首を複雑骨折したとの知らせでした。早速私は次の朝メールを送りました。

  左手複雑骨折痛拝察
今後
足固め地固めをしっかりして
高所にのぼられんことを
おねがいします
それにしても
左手で落ちる体を
支えるとは
若すぎます
常人は尻からおち
腰を折るはず
そろそろ童子の危険な
ことから脱却を
みなさんすごく心配してます
島原さんの分をみなさん
分担してくれてます
奥様呆れ顔してました
蛇足ながら
   郡司 博
 しかし、この怪我をものともせず、毎日のように家と事務所、合唱練習の往復。右手と頭と口で(時々左手も使い!)仕事をこなしている。

 <鈴木直人>テノール・指導者
 プロフェッショナルな合唱団員としてこの業界の中で生き抜き、無数の名曲を演奏し、一級の指揮者の下でも演奏会を多く経験した彼の懐には、たくさんのノウハウが詰め込まれている。
 指導者の一人に加わってもらうことになった事で、私の指導する合唱団のレベルは確実に上昇するであろう。体型的には太め?で顔は誰も憎めないほどぬいぐるみのようである。
 着ているものが何故かいつも同じものなのである時「他にないの?」と聞くと、「本当のおしゃれは同じものを3つ用意してるんですよ」と若杉弘の言葉を引用して語った。僕は誰にも言わずにこう思った。「3種類とも同じところに同じシミがあるなんて不思議・・・」って。
(4/24 更新)
 彼はプロ合唱団の東混や二期会の常トラとして、厳しい世界を生きていて、誰からも愛される性格をもち、合唱指導法の玉手箱をたくさん持っている。↑top

 <佐々木理子> ソプラノ
 以下は今年3月の佐々木さんが教えている<生徒達の発表会>用に依頼され、書かせていただいた文章です。

 佐々木理子さん、初めてあなたにあったのは、まだこどものようなあどけさの残る高校生のときでした。ピアノの師であった重松聡先生が伴奏をする、ドイツからきたテノール歌手ペーター・バーテルスのコンサートの時だったと思います。その時は今のような立派な音楽家になるなどとは夢にも思っていませんでした。緊張しながら重松先生が弾く指をじっと見つめ、譜めくりをしていました。それから何年かたって、(多分音大生の頃)ひょこっと私の指導する合唱団に現われ、美しい声でソプラノのソロ部分を歌ってくれ、合唱団員を楽しませてくれました。その後、多くのリサイタルやジョイントコンサート、結婚式のピアニストや、歌手として活躍する一方、テレビで放映されるクラシック音楽番組の重要なスコアラー、ディレクターとしても重責をこなすまでになり、テレビに<佐々木理子>の名前が出るのも多くなりました。3年ほど前から、東京荒川少年少女合唱隊の専属ピアニストとして、また、混声合唱団がオーケストラつきの大曲に取り組むときにはその指導者のひとりとしてピアノをひき、歌を教え、これまた大活躍。 佐々木さんの「音楽」の「楽」はいつも「楽しい」の「楽」で、あっと驚く趣向も凝らしてみんなを喜ばせてくれることも知っています。果たして今日はどんなふうに楽しませてくれるか、楽しみです。去年の夏ザルツブルグ大聖堂の演奏会の折り、ちょうどイタリア・ザルツブルグの演奏会を終えた<理子グループ>の人たちと、私たちのグループが、あの美しいカンマーグートの湖上の船ですれ違ったそうです。きっとあなたが教える子どもたちに、ヨーロッパ文化の真髄を見せたかったのだと思います。 これからも幅広く活躍し、子どもたちにとってのずばらしい先生として腕に磨きをかけられることでしょう。そしていつの日か先生を越える立派な音楽家が生まれることでしょう。どうぞ体に気をつけてがんばってください。
NPO法人 おんがくの共同作業場 代表理事 郡司 博
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 <小田 清> バリトン
 小田清先生は私が高校時代から音楽大学の1年生までレッスンを受けた方で、数年前に病気をしてから第一線を退いたが、オペラ、ミュージカル、オペレッタとフル回転の大活躍をしていた。
 奥様は時代劇映画のお姫さまスター長谷川待子さんで、彼女は僕のことを先生と呼ぶ。何故かというと、僕がSKD少女歌劇団(今はもうない)で声楽を教えていた時の生徒だからである。ミュージカルを浅草国際劇場で上演した時、それにゲスト出演した小田清先生と長谷川待子さんが知り合い、結婚とあいなったのである。だから、僕は多少の愛のキューピット役を演じたことにもなる。
 小田先生の日本の歌は土のにおいがする。待子さんの朗読は優しさと深みを併せ持つ。二人の共同のステージを作るのが僕の一つの夢である。15,6歳頃通った、江古田の先生の6畳間の質素な部屋でのレッスンは思い出深い。当時どうも道を歩きながら僕は大きな声で歌を歌う癖があったらしく、僕がドアを開けるまえに、いつももう開いていたのである。そういえば、バスの中で歌って隣のおばさんに「うるさい!」って怒鳴られた事も度々だった。↑top

 <小さな仲間たち> 合唱団員
 小さな仲間たちの一人に高校生になったばかりのSさんがいる。中学3年の時におかあさんと第九を歌いに来て、続いてモーツァルト「レクイエム」にも参加してくれた。高校進学のお祝いを何かしようといったら、「先生の映画が見たい」と言った。はて、それは僕が合唱指揮者のモデルとなった映画で、二十数年前に武田鉄也主演で撮った松竹映画「俺達の交響楽」である。さっそく友人にDVDを貸してもらい送ることにしたが、そこには、いつも事務局に座り喜怒哀楽のはっきりした伊田さんの二十数年前の姿も映っている。
 Sさんはバレエスクールにも通っていて初々しさと美しを兼ねそなえている。舞台にも興味があるらしい。可能性を秘め、自分の未来がどんな風になっていくか予感すら知らない世代がひたすら走る姿を見るのは楽しい。
 その他、男声団員に大学受験に失敗した浪人生や無事航空専門学校に入ったしっかり者の浩平君、小学生の時に変声期を無事終え、小学6年でモーツァルト「レクイエム」を短期間で暗譜してしまった鈴木君など若い世代がいる。↑top

 <古谷誠一> 指揮者
 指揮者の古谷誠一さんがイタリアに飛び立った。日常の生活用品よりも数倍の楽譜を持って行ったに違いない。彼が帰ってきた来年6月にはヴェルディ「レクイエム」を演奏したいと立川管弦楽団の大河内さんに申し入れた。共演していて楽しくなる、みんなを真剣勝負の場に引きずりこんでしまう指揮者だ。一回毎の彼の変化がまた楽しみで早く実現したい。
 彼は、東大を出て桐朋で学んだ異色の経歴の持ち主で、音楽大学でも教鞭をとり、アマチュアオーケストラの指導をしている。一年中コンサートやオペラの指揮で日本中を駆けめぐり、日本人指揮者として最も忙しい日々を送っている。私の身近なところでは、立川管弦楽団で昨年のドヴォルザーク「スターバト・マーテル」は、オーケストラをノーミスで演奏させ、合唱団もソリストも持てる力を十二分に引き出した見事な指揮ぶりだった。この4月から一年間イタリアのオペラ劇場に研究生として招聘され、研鑽をすることになっており、ヨーロッパでの活躍も耳にするだろう。彼のおかあさんは、私の合唱団で歌っていて、横浜から長時間かけて通ってくる。実に優しく、女性的魅力ある人である。その言葉と素振りに息子誠一さんへの愛情がほとばしる。彼は、3月末の「カルメン」公演の指揮を終えるとイタリアに飛ぶ。なんとなくお母さんがかわいそうである。しかし、誠一さんに代われる人は誰もいない。 ↑top

 <中村直樹> ピアニスト
中村直樹個人ホームページへ
 インターネット上で知り合い共に情報を交換している内に私の練習風景をのぞきに来て、以来一緒に仕事をするようになったのが若きピアニスト中村直樹くんである。彼は武蔵野音大の付属からの出身で大学院まで進んだ。一度社会に出てサラリーマンをしたが、どうしても音楽の道を捨てきれず(食えなくてもいい)この道で行こうと決心したところが僕の若い時と同じである。ピアニストの基本的テクニックは身につけているし、声楽家出身の超美人のおかあさんもいて家庭環境にはめぐまれている。それにとても素直に育てられた青年らしい。独奏者向きとピアノ伴奏向きのどちらかというと後者のような気がするが、経験と多くの一流の音楽家達とのふれあいの中で彼は確実に成長するピアニストである。そしてまた、貴重な存在ともなるだろう。私の事務所でお茶など出すとその後始末まできちんとして帰るところなど、私とは全く違う。
 合唱指揮者の山神健志くんとも良きパートナーとなり「若きフレッシュコンビ」などと自称しているが、いつかシニアとなった時に人の心を揺り動かすピアニストになって欲しいと思っている。そして彼ならできるに違いない。 ↑top

 <出会い>

 仲間と言えないかもしれないが、私は高校時代に2人の貴重な友人がいる。一人は高校新入生当時、隣の座席だった飯島英嗣君で、ものすごくピアノがうまく小さいころからの英才教育を思わせた。彼は芸大の作曲家に入り、院を卒業しフランスに留学し、そして後に武蔵野音大で教鞭をとっている。二人目は高2の時に転校した学校で、たまたま隣の席だった平川信君である。彼は国立音大、大学院と卒業し、一時有名高校で教職ついたが、今は合唱指揮その他で大活躍、僕の商売敵でもある。勉強もトップクラスで高校時代にすでに頭角を現し、ピアノの弾き語りやオペラやリートなども歌い、彼を中心とする男声カルテットのメンバーに僕も入れてもらったりしたのである。当然二人とも音大に行くのかと思っていたのだが、最初に音大行きを決意したのは才能も実力もない僕であった。
 僕は高3の時には、エスケープできる授業は全て音楽の勉強にあて受験にのぞんだ。彼らには実力・才能とも及びもつかず、未だにその時抱いたジェラシーと劣等感を持ち続けているが、彼らと出会わなければ趣味で合唱かオーケストラに入り楽しい青春を過ごしていたのだろう。いつの間にか合唱指揮者の道を歩き始めてしまったが才能の差は決して縮まるものではなく、今でも劣等感が続いている。私がこの世界に入り初めに仕事をさせていただいたのは、外山雄三、故山田一雄、秋山和慶各氏らの方々だった。先生方には音の厳しさ、音楽の厳しさ、音楽家としての責任をおしえて頂いただいたとおもっている。  しかし、出会いは妙である.偶然隣に座った2人の高校生がいなかったら今の僕はない。殆ど音信もないが、いつかは会えることがあるに違いない。また、このホームページを見ることがあったら、私をこの道に引きずり込んでくれたことに感謝を捧げたい。 ↑top

 <郡 愛子>
メゾソプラノ
 この私のHPが開設したその日、東京芸術劇場で新星合唱団と文京区民オーケストラ のマスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』が演奏されていた。その主役はまぎれもなくこの人、郡愛子だった。私も長い間彼女の歌を聴いてきたが、こんなにも高音が続く曲を見事に歌いこなすのを聴いたのは初めてだ。やはり彼女にはまだ未発見の可能性がたくさんあり、いつも挑戦し続ける芸術家である。合唱団員として共演した旦那は、打ち上げで会費の分以上に遅くまで飲み、彼女は翌日からの演奏会のために先に家路に着いたようだ。(未確認)
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 クラシックファンならずとも、この人を知る人は多いだろう。コンクール受賞・留学共に経験なしという所まで僕と同じ。彼女の事を「女神の声」と疑わない全国愛ちゃんファンの代表のようなマネージャーの太田さんというパートナーがいて、ますます磨きがかかり、リハーサルでも一切手を抜かず共演する合唱団員に毎回拍手で送られる。ご主人も最近、職場の同僚と一緒に合唱を再開した。
 女流音楽家の亭主は職場でどんなに地位が高くても、仕事帰りに近くのコンビニで枝豆とビールを買って、わびしく巨人戦をテレビで観る日々が続く事を我慢しなければならない。彼程の旦那を見つけるのは宝くじを1等・前後賞併せて当選するより難しいだろう。
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 <小林牧子> 私の専属ピアニスト
 ピアニストは練習中しゃべるわけにもいかず、無口でおとなしく、神秘にみちた女性と誤解する向きが多いが、彼女は全くと言っていいほど、その反対に位置する女性である。が、これ以上書くと仕返しが恐いのでやめる事にする。しかし、私にはなくてはならないピアニストなのである。
 旦那は、これまた彼女の大ファンの一人で、僕が指揮するコンサートのビデオ撮影を頼んでも、出来てきたものは鍵盤奏者の奥方中心で、僕の指揮ぶりは少々。奥さんは実物より大分美人に撮れている。彼女がピアノ・チェンバロ・オルガンを弾くコンサートで身を乗り出し、その一点を見つめているのがその男性である。
 探して見ては?それもコンサートの楽しみの一つ。↑top

 <小渡恵利子> ソプラノ
 私の知り合いの中では、唯一の毎日コンクール1位受賞者で、出身は青森県八戸。にんにく農家の一人娘と聞く。胸板の厚さは僕より太し。  
 高校卒業するまでは、誰もが声楽家になれるなどと思ってなかったそうである。この境地に達するには、日々の堪えざる訓練と向学心があったからであろう。
紹介ページ(演奏家.com)へ↑top

 いくら頑丈にみえても、私もたまには病気もする。最近は医師もびっくりする程、声帯が荒れ、老化からくる疲れのせいか、視力も弱まり楽譜も読みづらい。そこで「休養を取れ」と主治医は口うるさく言う。そして代役が必要になってくる。その代役を自分よりもキャリアのある人に頼むわけにもいかず、誰がみても「郡司よりもいい」と思ってしまうような実力者を呼んでくると、団員が彼に流れる恐れがある。これは最も困る。しかし、私にとってそんな都合のいい代役はいない。↑top

 <佐々木紀夫>テノール・指導者
 彼は音大時代先輩で美声のテノールとしてならし、女学生の憧れのまとであった。藤原歌劇団で『イドメネオ』の主役を歌ったことがある。何を思ったか日本合唱協会、二期会合唱団、新国立劇場合唱団と渡り歩き、合唱業界だけでなく声楽界全体に見識が広く、よき相談相手になってくれる。また、その指揮ぶりは超一流との評もある。↑top


 <山神健志>指揮者
 あの阪神大震災の折、多くのボランティアが全国から神戸に結集した。彼が学んだ自由学園からも多くの学生たちが参加したそうだが、それを取りまとめ、ボランティア活動を支えたのが彼である。
 彼自身が企画・制作した「メサイア」のコンサートが4月3日(日)に自由学園記念講堂である。
 そのりりしい後姿を見るだけでも行った甲斐はあるだろう。 百数十名の合唱団とオラトリオ・シンフォニカJAPANの出演である。あらゆるプレッシャーをはねかえし、進め、健志君!
 彼を留学先のヨーロッパまで追いかけ、オペラ歌手志望の彼に「合唱指揮者にならないか」と誘惑したのは5年前。合唱指揮者の条件は勉強好きで、お人よしであればなれると、自分を省みず口説いた。シューベルトの『ミサ曲』をオケ伴で自ら指揮してデビューを飾る。次は『メサイア』にも挑戦。彼への評判は上昇中である。↑top

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