マタイとドイツレクイエムをドイツ、オランダで歌うことが決まったとき、日本では公演当日の雑務のため不可能なので、
今回は僕も合唱団の一員として歌うことを決めた。
今までのツァーと比べて今回のこの現地との合同演奏は、作品が膨大かつ緻密であるため、マタイではドラマティックなテ
ンポの変化、音量の変化に、規模の大きくなった合同の合唱団が、限られたリハーサルの中でどこまで反応できるのか、ブラ
ームスの複雑な音型、とくにフーガが教会の響きの中でどういう風に聴こえるのか。少ないリハーサルでこれほどの大合唱を
日常的に指揮していない指揮者がどこまで統率できるのか、まして「古楽器小編成のマタイ」全盛の中で、ドイツの聴衆がど
う反応するのか、興味があった。また、単なる交流演奏を乗り超えて芸術的にも納得できる成果が得られるのか、そういう中
で我々合唱団のこれからの課題は何なのかを、考えるいい機会だと期待していた。
ケルンもマーストリヒトも、それぞれの合唱団のレベルは非常に高い。ケルンの合唱団の『メサイア』のCD(ライブ)、マー
ストリヒトのミサの中で歌われたプーランクのミサ曲の演奏は、私たちが演奏に加わることがマイナスになってしまうのでは
ないかという危惧すら抱かせるほどだった。
しかし、実際に一緒に歌ってみると、ひとりひとりのレベルの差がそれほどあるとも思わなかったし、この2つの作品に関し
ていえば、つい最近、演奏会があったこともあって、ひとりひとりの仕上がりは決して引け劣ってはいなかった。
我々がこの作品を演奏するとき、事前に大きなプレッシャーを感じながら練習していくので、その意気込みや情熱が作品を
仕上げる上で有効に働いているのだろうか。彼らの中にはそれがあまり見られなかったのだ。幼い頃からこれらの作品に接し
続けている彼らにとって、宗教音楽は特別な音楽ではなく日常の音楽なのである。
ケルンのマタイでは、多人数の合唱団をまとめて劇的に創り上げた指揮者マイナルドゥスのテンポの変化や合唱団の人数の増
減、また立ち座りのタイミングも音楽の進行を妨げることもなく、そのアイデアはとてもすばらしかった。
しかし、僕が考える“ひとりの人を失った悲しみを背景に歌われるべき宗教作品”のもつ哀しみ、希望、信仰性といったよ
うなものが醸し出されたかというと、少し違っていたようだ。それは指揮者のキャラクターなのかもしれない。もちろん、そ
んなマタイがあってもいいのは当然である。
マーストリヒトのブラームスは、日本からの女声陣が多かったので、パートバランスの関係上男声にエキストラを3、4人入れ ていた。そのための混乱もあってか、歌っているときは緻密さと盛り上がりに欠けていたように思えたが、教会という器の助 けを借りて音が天上から降ってくるようで、その問題も聴衆までは届かなかったようだ。セルファース教会聖歌隊の中心メン バーの力量は相当高く、彼らに負うところもあって、見事な演奏となった。ソリストは超一級で、オーケストラも広上氏が音 楽監督を務めるリンブルグオーケストラのメンバーも多数いて、安定し、深い音色を出してはいたが、教会で演奏するという 難しさを克服してはいなかった。(例えば出だしの音にもう少しアクセントが必要)。しかし、教会は音を浄化する不思議な 力を与えてくれる。ブラームスの美しさは言葉では表現できないほど感動的であった。
このふたつの都市での公演の主催者側からすれば、実際に来る『東京オラトリオ・ソサイアティ』のレベルもつかめず、「ど
んな合同演奏になるのか」とものすごく心配であったろう。指揮者、スタッフ、合唱団員ひとりひとりがそれを微塵にも出す
ことなく、我々を深い友情のまなざしで、心から歓迎してくれたことは感激だった。
僕は歌いながら、美しいアリアに聴き惚れ、日本ではなかなか感じることができない聴衆の積極的な反応を楽しんだ。リハ
ーサルやゲネプロ中に起こる数々のアクシデントに指揮者が冷静に対処する姿を見て、感心しきりでもあった。問題はどこで
も同じ様なことが起こる、ソリストが立つ場所、楽器の位置、コーラスの並び方、楽譜の統一性、GPの時間の足りなさ、そし
て指揮者の人間性、それらのひとつひとつが解決されていくのを無責任に客観的に見届けるのは、この上なく楽しいことであ
った。
また、スタッフの対応は見事であった。音楽をする者にとって、技術をアップしていくことはもちろんだけど、新しい人を
迎え、広げていくことを怠ることなく続け、合唱の輪を広げることの大切さを教えてくれた。『広げ高める』という芸術活動
の両輪をともすれば忘れがちな我々に警笛を鳴らしてくれたようでもあった。
音楽を通じてこそ可能な出会いがある。イスラエル公演で宿泊したキブツのホテルで真夜中に目が覚めて階下に降りてみた。
そこで眼にしたのは、クァルテットで即興演奏を楽しむ若者たちの姿だった。イスラエル公演のため、世界中から優れた若手
音楽家を集めたオーケストラJISOのメンバーだ。普段は互いに異なる社会・文化圏に暮らす若者たちが共にいられるわずかな
時間を惜しむかのように音を合わせるその場面を、決して忘れることができないだろう。熱いものがこみあげてくるのを拭う
のも忘れて聴きいってしまった。
また今回のように、身近に他国の人々の息づかいを感じながら、限られたリハーサルの中で作品を仕上げていくその達成感は、
深く長く心に留まる。ケルンを出発する我々を見送りにきてくれた指揮者マイナルドゥスやフィルハーモニーコーアのメンバ
ーとのお別れの場面、マーストリヒトでの最後のパーティーでの片言だけれども心が通いあう会話、そしてみんなの笑顔、そ
こには共に信頼しあい、歌い、創り上げた者たちが味わうことができた友情と連帯があった。
長年、『東京オラトリオ・ソサイアティ』として海外公演を続けてきた成果を確認し、新たな出発ができたように思う。