ドイツオランダ紀行

〜6〜

ケルン・マーストリヒトへの演奏旅行

早瀬 スザンナ

今回のドイツ・ケルンとオランダ・マーストリヒトへの演奏旅行は、私にとって、合唱す ることに加えて、生まれた場所を見つけ出すことでした。私はケルンの、それもケルン・リ ンデンタールで生まれたことは知っていましたが、それが市内の何処なのか知りませんでし た。私がこれまでに見たケルンは美しくて、有名な大聖堂、ライン川と旧市街の一部だけで した。

ケルンに着いて、私達のバスは市西部の郊外、キリスト・復活教会に直行して、ケルン・ フィルハーモニー合唱団の音楽監督、マイナルドゥスさんの指揮で私達だけの最初の練習が ありました。それを無事終わって、私達は皆、次の練習会場に歩いて移動しました。そこは ケルン市の大きな練習会場で、マタイ受難曲のケルン・フィルハーモニー合唱団との最初の 合同練習がありました。

数年ぶりにドイツに帰国した私は本当に幸せで、ドイツの素敵な合唱団員との対話を楽し みました。しかし私が一番驚いたのは、私達が練習してきた場所が正にケルン・リンデンタ ールであると知った時でした。生まれて初めて、私は自分の生誕地に何の予備知識もないま ま、たどりつけたのです。私はこれは運命だと思いました。私は興奮し、この幸せを噛みし めながら、それからの興味深い練習とケルンの近代的な美しいフィルハーモニー・ホール、 そして非常に古い歴史的なマーストリヒトの教会での演奏会を心からの感謝の気持ちをこ めて楽しみました。今回、日本とドイツ、オランダの人達はバッハとブラームスの素晴らし い音楽を通して、ほかのいかなる政治的な力でもできない、遥かに親密な間柄になることが できました。

忘れる事の出来ない経験をさせて下さった、マエストロ郡司と疲れを知らないスタッフの 方々に心から感謝します。                   

ケルン・ユーリッヒ・そしてマタイ受難曲

B 島原 浩

ヨーロッパ公演がマタイ受難曲とドイツ・レクイエムとの魅力的な組み合わせプログラムとなると、私達夫婦にとっては、この機会を逃すわけにいきません。しかし、イスラエル公演の強烈な印象の後では、一つの通過体験であったのが帰国後の率直な感想です。

ケルン・ムジーク:「各種演奏団体」、小屋を貸す「コンサートホール」と切符販売ネットワーク:「ケルン・チケット」が連携、合作作業して、2年先迄の各ジャンルに渡る演奏会計画を組織的に企画し、一冊子まとめているのはさすがドイツと感心しました。
フィルハーモニシェ・コア・ケルン:53年の歴史を誇る大型アマチュア合唱団。スポンサーがあるわけでもなく、市からの経済的な支援も僅かな独立採算の非収益法人組織。マタイでは黒字だが、昨11月の現代合唱曲の演奏会は赤字であったそうです。今後のカイロ・オペラ・ハウスへの招待演奏旅行はインターネットの取り持つ縁だそうです。
マタイ受難曲は20回から50回歌った合唱暦があるとか、(それでいて、ヨハネは未だ歌った事が無い人もいるのは不思議?)周りの男声は厚表紙で紙質の悪い古い楽譜を使っているとか、私達のホスト・ファミリー夫妻が子育てを終えて2年前、20年ぶりに復帰してみると、昔の顔なじみが結構沢山残っていたとか、またその奥さんは結婚前の旧姓が残っている楽譜を使っているとか、とにかく歴史の厚さを感ずる合唱団でした。

3月17日、近代的な扇型のケルン・フィルハーモニー・ホールで270名の大合唱団による「マタイ受難曲」。満席の聴衆もマタイは知り尽くしている模様、ステージ上の立場所も暗黙の年功序列があるようで、巨体に囲まれて見れば、彼らが東方から来た日本人が一体ドイツ語でマタイが歌えるのかなと内心疑うのも至極当然と納得しました。2,3人の聴衆の感想ばかりでなく、新聞評までが、独、日合唱団の音質は均一であったとの共通評価を聞き、現地ドイツ人達にとって、我々は余程異質のものと思われていたのかとひがみたくもなります。その意味では、我々日本人としてのプレゼンスを認識してもらう機会になりました。
3月21日、マーストリヒトでの「ドイツ・レクイエム」。不完全な演奏も教会内の長い残 響の渦にかき消されて、聴衆も含めた想像を越える、熱烈な歓待ぶりに戸惑いながら国際 親善の役割は果たしたことになるのでしよう。もし同じ曲をHamburgで演奏していたら マタイと同じ厳しい体験したかもしれません。

私達のホスト・ファミリーはKoelnの西方40km余りMaarstrichtとの中間地点Juelich 在住で、Koelnには、単線のローカル線でDuerenまで出て、通勤列車に乗り、Koeln- Ehrenfeldでまた市電に乗り換えて、練習会場までは1時間以上かかりました。
  Juelichは広大な平原の中の小さなの町でしたが、KoelnからMaastrichitへのローマ道として2000 年の歴史と遺跡があり、18世紀にはフランス領にもなり、1944年、爆撃で市の97%が破 壊されたのです。市内には五稜郭と四稜郭が組み合わさった城郭も復元され、市周辺には 高等研究施設、石炭の露天掘り、風車発電、放送局の巨大アンテナ群が林立し、甜菜糖プ ラントあり、平原に高さ200mの廃棄土でできた人工丘があるとか、興味の尽きない町の一 角、流れの速いRur川に面し、遠くアウトバーンM44の騒音も聞こえる郊外住宅地でした。
連夜、練習が終わって帰着は11時半、それから軽い夜食をご馳走になりながら、遅くま で、議論が始まり、ご主人は翌朝5時半には起床、Koelnに出勤されるというハードな毎日 でした。その際の話題をひとつ。
1943年4月23日の聖金曜日、KarlsruleのEvangelische  Stadtkircheで、Wilhelm Rumpf 指揮のマタイ受難曲演奏会のプログラムを、私が一昨 年米国のWilliamsburgのB&Bに投宿した際に発見。戦中、第三帝国時代、ナチスはマタ イ受難曲のテキストは不適切として上演を禁じたとの記述を読んだ記憶があり、「当時の 敗色濃厚な戦時下での演奏会はどんなものだったのだろうか?」との私の問いに、「当時は 多分2時間くらいに短縮して演奏されたに違いない。」と言うのが彼の答でした。とすれば、 どんな演奏だったのか次の疑問が湧いてきます。
帰国後、Stuttgart, Dublin公演に長崎から参加した一ノ瀬さんから、“ナチスによるテキ スト改ざんの証拠発見”との手紙が届いていました。

「1941年Berlinで録音のBruno Kittel 指揮、Berlin Phil.とBruno Kittel合唱団のMozart:Requiemの復刻CDはソプラノ・ソロ の歌詞Te decet hymnus ,Deus in Sion はDeus in coelis に、in Jerusalem はhic in terra と、ユダヤ色を一掃しようと聖歌の歌詞を置き換えていた。ちなみに同年イタリヤ・ロー マで録音されたVictor de Sabataによる同曲は聖歌テキスト通り歌われている事も確認し た」
そうです。 3月末に、ローマ法王はイスラエルに贖罪の旅をされています。
演奏会当夜には、Freiburgから母親をはじめ、甥夫婦、子供3人と一族郎党が聴きに来 て(この点もオラ研に似ている)、翌朝には演奏を聞いた近所の人達が入れ替わり、訪れて きては「昨日の演奏は良かった」と感謝と感想を話してお茶を飲んでいく、その中には現 在Juelich合唱団を指導している元聖トーマス教会のオルガン奏者の老人もいました。誰も が合唱の音質は均質であったと同じ感想。母親を始め、子供達、近所の人と結構、英語で 会話できたのも予想外でした。翌日Cairoへの演奏旅行出発を控えて、何も準備をしてい ないホスト夫妻は二人の旅行カバンや靴をその日、土曜日の閉店前に買い揃えなければと パニックの状態の中、家族に別れをつげHeerlemのコンサート会場まで送り届けて頂きま した。

最後に今回の公演企画に尽力されたカレンさん、ヘルヴォルトさん、他スタッフの方に心 から感謝しています。             

ケルン・マーストリヒト公演に参加して

A 和田 暢子

 今回の海外公演の演目であった"マタイ受難曲""ドイツレクイエム"は共に思いで深く、私にとって大切な曲で、それをヨーロッパでしかも現地の合唱団と一緒に歌うなんてそうある機会ではなく、自分がこれらの曲に感じているものを向こうの人達がどう感じているか是非自分の耳と肌で感じてみたかった。それに今回はケルンでは初めてのホームステイということもあり期待と不安で内心ドキドキしていた。

 外国人慣れ(?)していなかった私だったが、つたない英語で近くの合唱団員とおしゃべりをし、その中で"マタイ"だけを実に50回近く歌っているという女性に出会った。彼女は70歳近いか、あるいは越えているかと思われたが、若々しく背筋をピンと張ってとても楽しそうに歌っていた。それはまるで流行歌や子守歌を口ずさむようで、音楽は彼女の体から自然と涌き出てきて常に側にあるように思えて、私は"何が違うんだろう"という疑問で頭が混乱した。発音の問題、声のボリューム等で少し神経質になっていたせいかもしれないが、自分の歌がとても小さくまとまって聞こえ、私は自分で歌うという大切な事を忘れかけた。とても音楽を楽しむ余裕など無くなってしまっていたのだ。そんな中で偶然隣で歌った若い合唱団員の優しい言葉が救ってくれた。"あー自分の音楽をすればいいんだなあ"という安心感が私に無心に歌う力を与えてくれ、本番は周囲の人と心を合わせる様な演奏ができてとても嬉しかった。とはいえ本番直前の数々のハプニングにはまいったが、今となればこれもまたいい経験!私が感じた疑問の答えは見つけられなかったが、何か自分の中に自信の様なものが生まれたことは確かだ。 

  ちょっと不安だったホームステイは伊田さん、武田さんと一緒で心強かった。私達がお世話になったイングリットさんの家は彼女の主張が散りばめられた家で、優しい旦那様と猫2匹と一緒の生活だった。私達はバス、トイレ付きのロフトに住まわせてもらい、毎朝夢のような朝食に舌鼓を打ち、用意してくれたものは全てトライしてみるという食いしん坊ぶりを発揮してイングリットを驚かせた。練習場から皆で帰る時は我が家に帰るような気さえし、暖かい笑顔で"お帰り 今日はうまく歌えましたか"と出迎えてくれた旦那様に"はい たぶん"と子供の様な気持ちで答えたのを思い出す。帰宅後のまるで家族の団欒の様な一時がとても楽しかった。声を枯らしながらイングリットは私達とドイツ語、英語がごちゃ混ぜで身振り手ぶり付きのおしゃべりをしてくれ、時には大笑いになることもあってなんだかとても嬉しかった。カイロ公演前の忙し時に私達を暖かく迎え入れてくれたご夫妻には本当に感謝している。

  公演が成功したという満足感とケルンを去る寂しさとちょっとの疲労感を持って到着したマーストリヒトは古い小さな静かな街だった。私は朝のミサに行く前に人一人いない広場で新鮮な空気を思いっきり吸い込んだ。聖セルファース教会の聖歌隊はとても暖かく私達を迎かえ入れてくれ、ケルンでの反省もあったからかリラックスしておしゃべりができた。練習が朝に晩にとあってなかなかゆっくり観光する時間がなく、へたをすると夕食も満足にとれないというハードスケジュールだったが時間を惜しんであちこち歩き回った。教会での練習は残響音の長さに悩まされたが、教会という場所の醸し出す不思議な力に助けられてか気持ちは穏やかだった。ただどうしてもスタミナ不足により疲れがたまってきてしまい、自分との戦いが最大のストレスとなっていた。思い入れが深い"ドイツレクイエム"だけに体がいうことをきかないことが情けなく悔しかった。満員の聴衆を前にドキッとするようなハプニングはあったものの、私は教会の中に響く音楽に集中していった。おそらくホールでは成し得なかったものがそこにはあったと思う。"ドイツレクイエム"を歌うのは初めてと言っていた隣人は一生懸命歌っていて最後まで持続する、そのスタミナにはある意味で驚かされた。公演終了後、終わったという安堵感と満足感で飲むビールは一際おいしく、言葉はよくわからなくても一緒に歌ったという喜びだけで聖歌隊の人達と互いに何か通じるものがあって、我ながらかなり陽気になっていた。

  夢の様な10日間は時間に追われながらも、盛り沢山の思い出を作ることができた。 色々な人と出会い、カルチャーショックを受け、音楽を一緒に創り、"自分の限界に挑戦!"的なところもあったが、改めて音楽の持つ力を認識し、歌ってきてよかったと今つくづく思っている。沢山の写真を見ながら一緒に歌った人達のことを懐かしく思い、まだ聴衆の拍手の鳴り響く中で私の耳元に囁いた"あなたと歌えてよかった。ありがとう!"という隣人の暖かい心の言葉が思い出される。今回の演奏旅行で得たものはおそらく自分で認識している以上に大きいのではないかと思うし、これからその影響が少しずつ出てくるのではないかとちょっと期待している。

海 外 公 演 の 今

鈴木耕治

* イスラエル公演に続いてケルン・マ−ストリヒト公演があり、比較的短い期間に5回の海外ステ−ジを経験した。なお続いてボストン公演がある。郡司先生がテルアヴィヴで大声でいわれた「皆さんは、何の努力もされることなく海外のステ−ジに立っておられるが………」という言葉が(そのときは、「しっかり歌わんか! この……」という檄であったが)今は文字どうりの意味において、忘れられない。私たちの大部分は、海外公演の実現には何の力にもなっていない。すべて郡司先生と先生の知己であられる指揮者・音楽家諸先生および数少ない外国人合唱団員の大変な努力で実現している。他のアマチュア合唱団には例をみない快挙に、まずもって深い感謝を捧げる。また、パズルのような参加者の行動を掌握し、練習・移動・会計などを正確に処理した事務局も見事で感謝のほかない。

* 今、すべての領域で国際化がすすむ。私が合唱よりは少し詳しい登山の世界でも、日本の冬山で十分練習してないまま海外登山を目指す人は多い。危ない。私が海外公演参加を申し込むとき、まず悩み、心配になるのはこの過ちを犯していないかということである。登山の場合は、自分の技術以上のことをすれば怪我をするか、登頂できないか結果がはっきり出る(まれに幸運が重なって成功することがあるので困るが)。私たちの合唱の場合は自分が海外公演に参加できる域に達しているのか、はっきりとは分からない。自分で分からないのは未熟である何よりの証拠ではあるが、つい自分だけ「できてるつもり」になりやすい。練習皆勤でも駄目は駄目であるし、共演の相手や歌う曲によっても合格点は上下する。結局、私は、今回の準備も、不安を残したまま精一杯の時間を練習に当て、オーディション(マタイ)を真っ先に(男声)受け、補習(ドイツレクイエム、男声4人、これほど強力な練習はない)も受けて、「まあいいか」とあやしげな自己判断をして参加した。客観的評価は公演後、指揮者とお客様に聞くしかない。私は、内部選考のようなオーディションを必ずしもいいとは思わない。できれば出演を希望し、時間と費用負担(ローンもある)の許すもの全員で外国のステージに立ちたい。海外に出るメンバーは、われらのベストメンバーと同じ(または合唱団を代表できる)力量と国際舞台の最低水準を下回らないであろう準備を自主的にして出かけることが必要であり、それが招待して下さった方と実現に努力して下さった方への礼儀であると考える。厳格に国際水準を考えれば、私は行かれないのかもしれない。でも実力ある人が出て、海外での合唱が美しくなればそれでいい。本音をいえば背伸びしないほうが合唱は楽しい。しかし背伸びしなければ進歩もない。   そうそう、今度の旅行は少し楽しすぎた。演奏旅行はこんなに楽しくてはいけないものなのであろう。ちなみに登山の海外遠征は、こんなに楽しくはない。

* さて、5回の海外ステージで私たちと共演して下さった合唱団は、次の5つであった。

1 The Ramat Gan Chamber Choir 12/28,29. エルサレム、     「復活」
2 The Prague Chamber Choir   1/1.    テルアヴィヴ     「第九」
3 Philharmonischer Chor Koln  3/17.   ケルン      「マタイ受難曲」
4 Knaben und Madchen der Kolner Domchore  同上
5 Cappella Sancti Servatii    3/21.  マーストリヒト   「ドイツレクイエム」
歌声を聴いた合唱団は 6 The Philharmonia Singers    1/1.   テルアヴィヴ 「Midnight Vigil」

どの合唱団も一つの都市あるいは一つの国を代表できる力をもつ。ほとんどはプロまたはプロ+セミプロ、もしくは現役の教会合唱団(レベルの高いアマチュア)。共通して宗教合唱曲を最も得意とする。プラハ室内合唱団はリリングさんの指揮の「メサイア」で日本の聴衆を感動させ、なじみ深い。ケルンのフィルハーモニッシャー- コールの団員たちは、自宅を日本の合唱団の宿舎に提供して暖かく、あるいは開放的に迎え、ケルンフィルと共演のCDを私たち全員にプレゼントして下さった。また、カペラ- ザンクティ- セルヴァティの合唱団員は、私たちを5〜6人のグループに分けて、歴史あるマーストリヒトの町を歩いて案内してくれた。その時の歴史と宗教の説明の丁寧なこと、正確に覚えていること、合唱だけでなくヨーロッパの女性の気品と教養を見せて下さった。言葉が通じなくても、終始にこにこと通ずるまで予定時間を越えて話して下さった。私はこの5つもの合唱団と同じステージに立って、発声・発音・アクセント・ウムラウトなど「実物」を聴いて、なるほどと思うことが数多くあった。が、それとならんで、これから海外との交歓がすすめば、彼ら・彼女らのしてくれたのと同じ程度のことがごく自然にできるようにならなければいけない。むずかしいことだが、海外公演とはそういうことを含むのだとはじめて気付いた。また、回を重ねることになれば、観光客気分でいては公演先に私たちのファンはできない。今回、私ができなかったケルンのホームステイをなさった皆さんは、立派だと思う。宗教曲合唱がヨーロッパという風土にしっかり根付いている以上、これからもヨーロッパに出かけて(来ていただいて)勉強すべきことがきわめて多いと感じた。

* 海外公演をどう考えたかは、結局郡司先生が作り上げたこのすぐれた合唱団組織をどう考えたかにかかってくる。コンサートのチケットを必ず買ってくれる友人Fのように 「オラ研の魅力は二つ。一つは150 人をこす大合唱。常時練習している大合唱団はどんどん減るよ。小人数の、機械のようにピタッと合う合唱もいいが老若男女の大合唱はいろんな声聞こえて人間的でいい。圧倒的なフォルティシモがあればもっといい。二つ目は一途さ、素人のもつ一途さだよ。手慣れた調子でマタイはかなわん。」という人もある。趣味の範囲で合唱を楽しむはずが、巨匠と呼ばれる指揮者のオーケストラや世界でも一流の合唱団と共演するにおよんで、趣味ですと済ましていられなくなってしまった。海外公演が老人の音楽ツアーでなく、若い団員の経験を積む機会となることを願ってやまない。

親愛なる、新しいドイツのお友達、Veronika Bachem さま

長尾 佳子

エジプトへのコンサートツアーは如何でしたか? たくさんの、愉しい思い出を持ってお元気で帰国され、お仕事に復帰していらっしゃることと思います。有給休暇、年間6週間とお聞きして、とても羨ましく思いました。ご出発の前日なのに、皆さまでマーストリヒトへ旅立つ私たちをお見送りくださり、ほんとうにありがとうございました。

  初めてお会いして、ご自宅を案内していただき、『ここは、私たちの家、どうぞ、自由に使ってネ』とすぐに入り口の鍵を渡してくださいました。初対面の、しかも異国の私に、こともなく、全面的な信頼をお示しになったことに、とても感動いたしました。それからの4日間、それはそれは心地よく過ごさせて頂きました。『ここの部屋には、いろいろな国からのお客さんが、泊られたのよ、勿論日本のかたも。私は、ゲストをお迎えすることを、とても楽しんでいます。』とおっしゃって、私を歓迎してくださいました。毎日の暖かいおもてなしを、心から感謝しております。いつも、食卓のキャンドルに灯を点し、お食事や、お茶の時、いろいろお話したことを、懐かしく思い出しています。日本へ行かれた時のこと、あの、日独両国が惨禍に見舞われた戦争のこと、音楽のこと...貴女がラジオのスイッチを入れてくださったら、ワーグナーのリエンツィ序曲が聞こえてきました。私は、かって、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場で、このオペラを鑑賞したことがあります。タイトルロールのルネ・コロが白馬に跨がって舞台に登場したことなどお話すると、ケルン国立歌劇場の日本公演の話題も出ましたね。

 皆さんのお住まいの通路の壁面にこの時の大きなポスターが飾られていました。
  なんと、この建物の2,3,4F にコーラスメンバーのお家があって、とても仲良くお付合いされていました。2F の Estelle さんは合唱団に長いキャリアを持っておられ、その上お料理がお得意で、私は2度もお食事に招かれて、ご馳走になったり、街の散策や、お買い物に同行してくださいましたので、2F にステイしておられた、S さんが念願のリコーダーを手に入れることが出来ました。最後の日、一緒にお食事に来られた4F の Maris さんが、前日のマタイ受難曲公演の話題で、「わたし、Wahrlich ....のところで、 唱いながら、涙が出ちゃった..」と云われたことが、強く、印象に残っています。 皆さまにとっては、テキストが母国語であり、その宗教的、劇的内容がそのまま 心に響く!! 私達は、語句の意味、内容を理解するように努力してはいますが、不充分であることが、常に心残りです。言語の壁はベルリンの壁より手ごわい!でも、音楽と言う槌でこの壁を砕き、皆さまと共にひとつの演奏を創出できることに限りない喜びを感じております。マイナード ス先生も、緻密なご指導で、私達を押し上げてくださいました。マーストリヒトでも、セルペンティ先生に連日、丁寧な練習をしていただき、友好的なオランダの人々と和やかな交流があり、聖セルファース教会でのドイツ・レクイエムも会場を埋めた人々の盛大な拍手を頂きました。
 いつの日か、また皆さまと一緒に、唱える機会のありますように祈りつつ、

心からの感謝をこめて、ごきげんよう