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指導陣の紹介 指揮ピアノ

指揮 郡司 博 Hiroshi Gunji

photo by伊藤 弘
指揮法を山田一雄、ハンス・レーヴライン両氏に師事。これまでに朝比奈隆、故渡辺暁 雄、若杉弘、外山雄三、岩城宏之、V.ノイマン、Z.コシュラー、J.フルネ、P.マーク、 L.スロバーク、O.レナルト、H.カウフマン、R.ケルバー、E.インバル、C.エッシェンバ ッハ、H.J.ロッチェなど、内外一級の指揮者と共演し、東京都交響楽団、日本フィルハ ーモニー新星日本交響楽団東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団など、プロオ ーケストラの代表的な演奏会でも活躍している。89年に引き続き90年の東京芸術劇 場オープニングコンサートでのシノーポリ指揮による『千人の交響曲』、91年故バー ンスタインの遺志を継いで開催されたPMFのマーラー『復活』の合唱指導、94年新宿 文化振興会主催のマーラー『千人の交響曲』、96年ヴェルディ『レクイエム』等、い ずれも高い評価を受けている。レパートリーはバッハ、ヘンデルから近代、現代のヒン デミット、ウォルトンにまで及び、特にバッハを中心とするオラトリオ指揮者としても 活躍。モーツァルト洗礼教会として知られるザルツブルグ大聖堂より、3回にわたり指 揮者として招聘され、ザルツブルグ音楽祭の一環として行われる大聖堂コンサートでモ ーツァルト『レクイエム』を指揮。95年及び96年にはベルリンフィルハーモニーホ ールでベルリン交響楽団主催『第9』演奏会に出演した。96年8月、メサイア初演の 地ダブリンにて『メサイア』の指揮をし、新聞誌上でも絶賛された。

インタヴュー≪合唱指揮生活30年を振り返って≫へリンク


ピアノ 小林 牧子 Makiko Kobayashi

武蔵野音楽大学音楽科ピアノ専攻卒業。小林仁、水本雄三、 ヘレナ・コスタ、宗施月子の各氏に師事。ザルツブルグ・ モーツァルテウム音楽院夏期講座に参加、修了演奏会に出演。 新日本フィルハーモニーとラフマニノフのピアノコンチェルト を共演。またスロバキアフィル、新日本フィル、新星日本交 響楽団、東京交響楽団、アンサンブルofトウキョウなどと、 チェンバロ、オルガン奏者として共演している。多くの大合唱団 のピアニストをつとめ、海外公演にも同行。1995年ベルリン公演 で『クリスマス・オラトリオ』、96年ダブリンで『メサイア』の チェンバリストをつとめた。J.フルネ、Z.コシュラー、若杉弘、 秋山和慶をはじめとする内外一級の指揮者、ソリストのもとで伴 奏をつとめている。

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【指導陣のページ】

≪合唱指揮生活30年を振り返って≫

「ふたりの巨匠展」(97/7/9) プログラム掲載インタビュー記事より
まずは30年を振り返っていただきましょう。先生の出発点は?

G:今から30年前、日本の重工業地帯の中心である川崎の大企業 の現場で働く青年達の間でベートーヴェンの「第九」を歌おう という話が持ち上がり、当時、音大を卒業して、合唱指揮者・ 北川剛氏の手伝いをしていた僕にその指揮の依頼がきたのです。 集まった団員は、ほとんどが地方出身者で、合唱経験のある者 は殆どいない。もちろん譜面も読めない。どう考えてもドイツ 語では不可能でしたので日本語で歌いました。練習には一年か けました。その間、合宿は2回。時として川崎に泊り込み発声 その他、基礎の基礎から徹底的に教え込みました。そして12月 の本番。コンサート終了後、舞台の袖で合唱団員一人一人と握 手をしたのですが、彼らの手は僕の手と違っていた。労働者の それだった。自分は一年間、こういう手をした人達と音楽を作 り上げて来たのかという何ともいえない感慨がありました。同様 に音楽の感じ方も違っていたのだとわかった。彼らにとって の音楽とは自分達の叫びそのものであり、それをベートーヴェ ンの音楽に託した。上手いとか下手とかではなく自分達が今こ こに生きている証が音楽だったのです。
この体験が合唱指挿者としての自分の大きな出発点でした。

集団就職で上京してきた青年達との出会い。様々な人間模様を 交え「歓喜の歌」を歌いあげていく過程。松竹映画「俺達の交 響楽」が生まれた背景にはそういう土壌があったのですね。

G:川崎の合唱団はその後l0年続きました。自分にとっては正に 身も心も捧げた10年間でした。

当時、「第九」の知名度、浸透率はどうでしたか。

G:オーケストラ付きの作品を我々が簡単に歌えるという時代で はなかった。ましてプロのオケと共演するチャンスなど全くと 言っていいほどありませんでした。

世の中の反響はどうでしたか。

G:アマチュア合唱団がプロのオーケストラが主催する演奏会に 出演するものはいかがなものか、、という批評も少なくあり ませんでした。

それをものともせず先生は断固として続けられたのですね。

G:というよりも人々がそれを望んだのです。 川崎のコンサートの翌日、職場に戻った合唱団員を迎えたのは 同僚の拍手でした。「あっ、ベートーベンが来た」と。(笑) 自分は生まれて初めて人から拍手を受けたと彼らは言ったので す。そこに僕は音楽の本来持っている意味を見ました。そして 自分の進むぺき方向性が定まって行ったように思います。 若かったりエリートだったりといった優越したところで社会 は成り立っていることが多いけれども、そうでない部分から生 まれる音楽があってもいいじゃないかと思った。僕の場合は音 楽に関心のない人達に声を掛けたところから始まったのです。

その後、日本を代表するプロのオケと数多く共演なさいました。

G:新星日響日本フィル、都響、東京シティーフィル、アンサ ンプルofトウキョウ、等の記念碑的演奏会に自分の教えている 合唱団が出演出来たこと、又、世界の様々な国の指揮者達と共 演したこと、そこから得たものは本当に大きかったです。合唱 団と共に僕も成長していったと思います。

そして活動範囲は海外へと広がっていきました。海外との繋が りについてお話しください。

G:8年前ハンプルグの聖ぺトリ中央教会合唱団と共済したのが始 まりでした。ザルツプルグ大聖堂、ドイツのキール、ダプリン、 シュツットガルト・・現地の合唱団、オケ、指揮者との共演。 そして一つの到達点がl995年のベルリンフィルハーモニーホー ルでベルリン交響楽団と共演した「第九」でした。

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様々な演奏活助を通し、先生が30年掛けて作り上げていったものと は?

G:宗教音楽を限られた人達と演秦するのではなくて、今迄こう いう音楽に全く関心がなかった、或いはその存在すら知らなか った人達に作品の面白さを呼び掛けていった。年に1回の演泰 が精一杯だったのが年に2〜3回になり、15回のコンサートをす るまでになりました。同時に宗教音楽を聴いてくれる聴衆も増 えていきました。

思い出に残る指樽者の話をお間かせください。

G:外山雄三氏は音の厳しさを、山田一雄氏は音楽の厳しさを、 マウラー氏は言葉の重要性を、ロッチュ氏は音楽の楽しさを教 えてくれました。オンドレイ・レナルド氏は民族の匂いを保ち ながら自分の音楽の基盤を感じさせてくれる指揮者でした。日フィル の広上氏には大変な「才能」を見ました。特に前回の「ヨ ハネ受難曲」を振ったロッチュ氏。彼から学んだものは大きか った。技術的にも大変勉強になりましたが、彼の生きざまが実 に多くを語ってくれました。ドイツ東西統合で聖トーマス教会 のカントールという職を追われ干されてしまう。いわば時代か ら見捨てられたわけです。政治は彼を否定した。しかし彼は自 分達がやってきたことの正しさを信じた。そして時代がどうい う風に進んで行くぺきかを見抜こうとした。精神的には決して 負けていなかった。時代は彼を見拾てたけれども彼は時代を見 捨てなかった。

本来なら雲の上の人。彼の指揮で歌えた喜ぴは量り知れません。 どこを切ってもバッハの音楽が出てくる。音楽によって動かさ れている人といった印象を受けました。人間はここまで強くな れるのかという。

G:それが彼の優しさに溢れた音楽に表れていると思います。

先生にとって良い指揮者の条件とは?

G:まず、僕の教えた合唱団を指揮してもらう時はどこまでその 合唱団を愛してくれる、同時に、これから演奏する作品をどこ まで愛せるか。/

\オケにしろ合唱にしろ完璧なものは存在しない のであって、弱点をいかに超え、それ以上に素晴らしいものを 本番のステージで発掘できるかだと思います。

ご自分がお振りになる(指揮)意味は?

G:僕は合唱指揮者です。合唱団を組織し、育て、本番指揮者を 迎えるというのが本来の自分の仕事と思っています。これから もそれは変わらないでしょう。僕が指揮をすることの意味はい くつかあります。ある一定のラインまで音楽を持ってきたら後 は客演指揮者に委ねるところを今回のように僕が指揮をすると により、通常迎える客演指揮者が我々にどういう要求をしてい るのか、どこまで精神的、音楽的に到達していなければいけな いのかを、より体験的に自分で明確にしたいからです。それと 最後まで一緒に仕上げるのは合唱団にとっても僕にとっても一 つの試練であり意味のあることでず。そしてその経験がこれか らの合唱団の成長には欠かせないことだと思っています。

先生以上にオラトリオを手掛けている指揮者は日本にはいない し、今回の2曲にしても「第九」同様、手の内を知り尽くした、 いわばご自分の城であると仰ってくださいました。

G:僕は自分がベストであると思ったことは一度もないんですよ。

拝見する限りにおいては、一瞬の躊躇もなく、ご自分を信じ我 が道を突き進むといった印象を受けます。

G:そんなことはない。僕の中にはいつも迷いがありました。

そうは、お見受けしませんが・・。先生の棒が一番歌い易いで すし。

G:歌い易いことがイコール良いことではない。指揮者が誰であ ろうと合唱団員一人一人がどこまで確信を持っていけるか。自 分達の価値を自分達自身で作れるようにならないといけないと 考えます。

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先生は我々合唱団員と何か共有したいものがあるのでしょうか。 音楽を越えた何か精神的なものを感じていらっしゃるのでしょ うか。

G:僕の中には常に、合唱団貝に対する劣等意識がありました。 自分だったら出来ないという・・・あんな怒られかたをしたら 耐えられないとか。(笑)(練習中、団員はよく怒られます。) 僕から見れば皆は「人生のプロ」です。本来の仕事を持ちなが ら歌っていけるという。

演奏会という場を設け、生の演奏を聴いていただく意味は?

G:どんな有名ホテルのコック長がつくる料理を写真で見るより、 自分のおっかさんが作る田舎科理のほうが美味しいのと同じで 一流のプロの名演奏をCDで聴くより、皆の手作りのコンサー卜 の演奏のほうが“本当の音楽”に近いと僕は思う。呼吸だとか 肌合いであるとか匂いといったものが直に聴衆に伝わるのです から。

聴衆に望むことはございますか。

G:コンサートに足を運んでくれて本当に感謝しています望むと 言うとおこがましいけれど、もっと我々の音楽を聴いて我々を 育てていただきたい。仕事も年齢も実力も様々な人達が同じス テージに立って歌うわけです。今やプランド志向で一部の優遇 された人達だけが受け入れられる世の中ですが、どこまで許容 量を持って聴衆が聴いてくれるか、でしか我々が成長していく 道はないのですから。

先生がオラトリオにこだわる理由は?

G:その面白さがまだ人々に充分に理解されていない、知られてい ないからです。

宗教音楽とは一体何でしょう。

G:神というか創造主というか何か無限のものによって人間は愛さ れている。とても大きなものに平等に愛されているという事実。 その懐の中で生きている。そのことに対する確信と喜びであり、 根本的には人間と、生命の神秘への愛の賛歌なのです。必ずし も教会という空間での限られた人達だけのやりとりではない。 人間の普遍的な存在理由がそこにあると思います。有史に残る 作曲家のほとんどが、この典礼文にこだわり、作品を作り続け た意味はここにあるのです。

どの作品にも根底にそれが流れていると・・・・

G:僕はそう信じます。

(宗教音楽<ミサ曲>について語る時、先生の語り口は一層、 熱気を帯び、それを文面ではお伝え出来ないのが残念!人間不 信が広がっている中、宗教音楽が教会や信仰の枠組みを乗り超 えて人間賛歌の普遍的音楽として発展していく道筋を語ってく れました。)

さて、本日のプログラムについて。

G:合唱の面白さは十二分に入った2曲です。

同じミサ曲を2曲。それぞれの聴きどころは?

G:まずベートーヴェン。時代の先鋭的な部分が見えます。当時 まだ教会が絶対的な権力を持ってはいたけれども、同時に市民 社会が独自の文化を作り上げていった時代。その新しい息吹の ようなものをこの曲の中に感じます。沈んでいない。しかし押 しつけがましくない音楽。それでいて宗教音楽という大きな枠 粗から逸脱していない。スケールの大きさを聴いていただきた い。

ハイドンは?

G:コンパクトさ。凝縮され、はち切れる寸前のエネルギー。

ラテン語の歌詞は全く同じ2曲。それぞれの曲に対する先生の表 情付けも見どころです。お客様には曲想の思いを聴き比ぺてい ただきましょう。さあ、最後になりましたが、これからの展望、 何をなさリたいとお考えでしょうか。

G:社会における合唱音楽の存在している理由、価値をもっとも っと確かなものにしていきたい。それを僕の場合はまず、練習 によって合唱団員に伝え、そして自分達の芸術を通して聴衆に 訴えていきたいと思っています。

    「ふたりの巨匠展」(97/7/9)
    ハイドン:テレジアミサ
    ベートーヴェン:ハ長調ミサ
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